家康が「東照大権現」であることの理由、「神仏習合」「本地垂迹」とは何か、っていう解説(平たく)。 | えいいちのはなしANNEX

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このブログの見方。写真と文章が全然関係ないページと、ものすごく関係あるページとがあります。娘の活動状況を見たいかたは写真だけ見ていただければ充分ですが、ついでに父の薀蓄ぽい文章を読んでくれれば嬉しいです。

 日本というのは何でもアリの大らかな国です。ここに、日本古来の神様と、大陸から伝来した仏様がいたとして、どっちかを選ばなきゃあいけないのか。いやいや、昔ながらの神様も、先進思想である仏様も、どっちも魅力的だから、一緒に拝んでいいじゃないか、そう考える日本人は、お寺の中に神社を建てたりしちゃうわけです。こういうのを「神仏習合」といいます。

 でも、もし「仏教」と「神道」がそれぞれ別個な宗教なら、それは両立するはずはなく、必ず対立しなければいけません。そこを「どう理屈をつけるか」で、いろんなことを考えるわけです。その、いろんな考えのなかで、いちばんもっともらしくて人々にウケたのが、「本地垂迹説」です。「説」ですから、ひとつの考え方、ということです。要は「神と仏を一緒に祀っている」ということを正当化するためにあとから考えた「説明」が、本地垂迹、というものです。

 「本地」にいる仏様が、日本人を救うために、特別に「神」という仮のかたちをとってあらわれたのである(権現、といいます)。だから仏と神は実は同じものなんだ、という理屈ですね。
 本地垂迹はひとつの「説」ですから、もちろん、別の説もあります。「外国の神がおおもとで、ってのは、気に入らないな」という人は、日本の神のほうがおおもとで、仏のほうが「化身」なんだという、反本地垂迹説(または神本仏迹説ともいうそうです)なんてのを考えるわけです。
 いずれも、「神仏習合」という実態を、上手く説明しようとする「説」にすぎませんから、「反」といっても別に根本的に対立しているわけではない。「理屈のつけかたが、ちょっと違う」という程度です。

日本というのは何でもアリの大らかな国です。ここに、日本古来の神様と、大陸から伝来した仏様がいたとして、どっちかを選ばなきゃあいけないのか。いやいや、昔ながらの神様も、先進思想である仏様も、どっちも魅力的だから、一緒に拝んでいいじゃないか、そう考える日本人は、お寺の中に神社を建てたりしちゃうわけです。こういうのを「神仏習合」といいます。

 でも、もし「仏教」と「神道」がそれぞれ別個な宗教なら、それは両立するはずはなく、必ず対立しなければいけません。そこを「どう理屈をつけるか」で、いろんなことを考えるわけです。その、いろんな考えのなかで、いちばんもっともらしくて人々にウケたのが、「本地垂迹説」です。「説」ですから、ひとつの考え方、ということです。要は「神と仏を一緒に祀っている」ということを正当化するためにあとから考えた「説明」が、本地垂迹、というものです。

 「本地」にいる仏様が、日本人を救うために、特別に「神」という仮のかたちをとってあらわれたのである(権現、といいます)。だから仏と神は実は同じものなんだ、という理屈ですね。
本地垂迹はひとつの「説」ですから、もちろん、別の説もあります。「外国の神がおおもとで、ってのは、気に入らないな」という人は、日本の神のほうがおおもとで、仏のほうが「化身」なんだという、反本地垂迹説(または神本仏迹説ともいうそうです)なんてのを考えるわけです。
 いずれも、「神仏習合」という実態を、上手く説明しようとする「説」にすぎませんから、「反」といっても別に根本的に対立しているわけではない。「理屈のつけかたが、ちょっと違う」という程度です。

で、家康が「東照大権現」という「神様にして仏さま」、で、天海大僧正という坊さんが作った「日光東照宮」という「神社にして寺院」に祭られてるのは何故か、って話に繋がるわけですが。

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