「南朝と北東は、どちらが正統だと思いますか?」という設問は、成立しません。これは政治決着だから。 | えいいちのはなしANNEX

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 どっちが正義か、とか、どっちが好きか、というなら「あなたはどう思いますか」ってのもアリでしょうけど、「どっちが正統か」というのは、素人があれこれ言ってどうにでもなる話ではない、高度に政治的な判断による定義の問題です。
 現代社会において、どっちが正統か論じても意味がない、というのは正しいです。まったく正しい。論ずるだけ馬鹿馬鹿しいです。
 しかし、歴史上、これをちゃんとしとかないと、どうにも話が進まない、という時代も確かにありました。で、そのときの、生きるか死ぬかの議論で「南朝正統」で決着してるわけで。現代人の我々としては、ああそうですね、というしかないんです。

 南北朝の戦い、ってどういうものか、という話は、以前にも書きましたが 、要するに、南朝と北朝が主体的に戦っていたのでは全然なくて、足利幕府体制に不満なヤツ、相続争いで分の悪いヤツ、隣の領主に負けそうなヤツが「南朝につきます」といえば叛乱分子ではなく官軍になれちゃう、そういう「受け皿」として便利だったので、いつまでもダラダラ分裂が続いたわけです。
 そこで足利義満は、南朝に「大幅に譲歩する」ことで政治決着をつけようとします。つまり、南朝の天皇に京都に帰ってもらう条件として、「いままではそちらが正統だったということを認めましょう。三種の神器もそっちにあったわけだし。だから、その正統な天皇位を、こちらの北朝の天皇に正式に譲位して、三種の神器も渡してください。今後は従来どおり、両統で交代に天皇を出しましょう」というわけです。南朝は喜んで京都に帰り、神器を渡して正式に譲位します。「南北朝合一」です。
のちに「交互に」という約束は反古にされ、南朝の子孫は消えていった、というのは、また別の話です。
つまり南北朝の争いは「南朝が正統」で決着したんです。そのうえで、完全に合意のもとに正式に譲位されたのだから、以後の北朝の子孫(現在の天皇に至る)も「正統」になった、ということでいいわけです。
よく「水戸黄門が、大日本史を書いたときに、南朝正統って決めたんだ」という人がいますが。別に光圀がはじめて独自のジャッジしたわけではありません。このときの手続きを追認したってだけです。
明治時代の学者も、結局、これに従いました。「現天皇は完全に正統である」ということを確認し、一方で、南朝に味方した楠木正成たちを「勤皇のヒーロー」に仕立ててプロパガンダに使うことも可能になりました。なんともウマイ「政治決着」といっていいでしょう。
「正統かどうか」ってのは、そういうことです。正義とか好悪とかとは、別の次元の話です。