「早稲田探検」5:漱石山房の面影を残す漱石公園! | 今日は何をレポートしようかな?

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漱石公園の名盤
夏目漱石の胸像

 早稲田小学校を後にすると在りました!漱石

公園の名盤!そして夏目漱石の胸像

彼が晩年、悩みぬき到達した言葉「則天去私」

が刻まれています。

意味は、天地の法則に従い私心を捨て去ること

ですね

新宿区立 漱石公園

この場所には、明治401907)年から大正519

16)年に、漱石が亡くなるまで過ごした「漱石山房」

がありました。ここで漱石は、「三四郎」「それから」

「こころ」といった代表作を執筆しました。

現在は、その地の一部が「新宿区立漱石公園」と

なっています。

〔参考:「新宿区 HP」より〕

 

漱石の散歩道 案内板 
漱石山房のおもいで 案内板 
漱石山房のおもいで2 

 入り口にはいくつか案内板が立っています。

「漱石の散歩道」「漱石山房の記憶」漱石

横顔と注意書きなどです。

漱石の散歩道

明治の文豪夏目漱石は、現在の喜久井町で生ま

れ早稲田南町で亡くなりました。

漱石の作品には、早稲田・神楽坂界隈が数多く登

場します。漱石は、ときには一人で、ときには弟子

たちとこの周辺を散策し、買い物や食事を楽しみ

ました。漱石を身近に感じながら、歩いてみてはい

かがですか?

漱石山房の記憶

夏目漱石は、明治40年9月、この地に引っ越して

きました。そして大正5年12月9日、『明暗』執筆

中に49歳で亡くなるまで、多くの作品を生み出し

たのです。漱石が晩年住んだこの家を「漱石山房」

といいます。漱石は面会者が多かったので、木曜

日の午後を面会の日としました。これが「木曜会」

の始まりです。「木曜会」、漱石を囲む文学サロン

として、若い文学者たちの集う場となり、漱石没後

も彼らの心のよりどころとなりました。

以上〔案内板より抜粋〕

 

漱石公園の奥 
道草庵 
漱石公園の空き地 

 では奥に進みましょう!

小さな庵が在り、「道草庵」と書かれています。

道草庵(みちくさあん)

道草庵は漱石や山房の資料を展示しています。

正面には漱石の書籍が復刻本で7冊並んでいま

す。

〔参考:サイト「てくてく牛込神楽坂」より〕

中に入ると、新宿区の職員の方がいらっしゃいま

す。

夏目漱石に関わる小冊子2冊とくまもとMAPと、

夏目漱石記念施設整備基金リーフレットと、現在

四谷の新宿歴史博物館で開催されている企画展

「熊本と新宿をつなぐ作家 漱石・八雲」の割引券、

そしてうちわを下さいました。

そして「この奥のアパートを壊して、新宿区記念

を1年半後に造るんですよ」と教えてくれました。

確かに「森鴎外樋口一葉も立派な記念館がある

し、正岡子規の子規庵もあるのに・・・漱石が無い

なんて不思議に思っていたんですよ・・・」

そう七郎委員長は応えました。

奥に空き地がありました。

 


猫塚と夏目漱石終焉の地 説明板
猫塚と夏目漱石終焉の地 説明板2 

 道草庵の横に猫塚とその説明板が在りました。

読んでみます。

夏目漱石終焉の地

所在地新宿区早稲田南町七番地

指定年月日昭和六十一年十月三日

この漱石公園一帯は、文豪夏目漱石が晩年の

明治四十年九月二十九日から大正五年十二月

九日に死去するまで住んだところで「漱石山房」

と呼んでいた。

漱石はここで「坑夫」「三四郎」「それから」「門」な

どの代表作を発表し、「明暗」執筆の半ばに夜を

去った。漱石死去当日の様子は内田百閒の「漱

石先生臨終記」に詳述されている。

また、漱石山房の様子は、漱石の「文士の生活」

や、芥川龍之介の「漱石山房の秋」「漱石山房の

冬」(ともに『東京小品』の中)などに克明に書かれ

ている。

この石塔は俗称「猫塚」と呼ばれているが、これ

は「我輩は猫である」の猫の墓ではなく、漱石の

没後遺族が家で飼っていた犬や猫、小鳥の供養

のため建てたもので、昭和二十八年の漱石の命

日に、ここに復元された復元されたものである。

平成三年十一月

東京都新宿区教育委員会

夏目漱石記念施設整備基金、微力ながら協力し

ようと思います。

そして新宿歴史博物館にも行こうと思いました。