【少々古いエントリですが、市場についての記念すべきエントリ及びコメントとして、投稿します。】


山口氏のブログを久々に訪れてみた。みずほ証券の「誤発注」問題に言及されていればと思ったが、さすがにそれはなかった。しかし、代わりに「金もうけ主義は経済至上主義ではない」というエントリがあった。

耐震強度偽装問題に触れたものだが、これは「投資」と「投機speculation」の違いにも通じるように思う。結論から言えば、「投機」は経済至上主義によっては行われえないことになる。

「投資」は経済至上主義によって行われることがある、そう言えるだろう。お断りしておくが、「投機性」は「投資」にもついてまわる。「投機性」とは、射幸心にも近いが微妙に異なる。曰く言い難い。ケインズに言わせればanimal spirits「血気」である。これはしかし事の正邪を問うものではない。邪であるか、正であるかは「何をなしたか」によってのみ問われるだろう。


【引用開始:強調は引用者】

(中略)「経済」と金もうけはちがう。「経済」とは、おもいっきり簡略化すると、「効率的な資源配分」のことだ。目的は人の効用(要は「満足」ということだ)を増進すること。当然、資源には制約があるから、その制約の下で効用をいかに最大化するかを考える。

「金もうけ」は、効率的な資源配分の結果である場合もあるが、そうでない場合もある。安易なやり方は、人をだます方法だ。いってみれば情報の非対称性を利用して、虚偽のコストを示すことによって自分だけの利益を増やすことであるわけだが、これは効率的な資源配分ではないし、そもそも安定的な「均衡」でもない。虚偽がばれれば、業者の信頼は失墜し、二度と復活はできなくなる。ばれるリスクは、無視できないほど高い。そもそも持続可能性がないのだ。これがなんで「経済至上」といえようか。

【引用終わり】


いまどき流行らないかもしれないが、経済的に生きるとは倫理的に生きることに繋がるはずだ(った)。

経済は、修身の教科書のように、倫理、倫理(道徳)と唱えずとも、自ずとそうなるようなものであるはず。

そういう生きられる状態をも指す言葉、概念だった。本来。

そういう「経済」がまったく見えにくくなってしまっている。


以下、少々飛躍する。

しかし、さすらいのギャンブラーがドラマたりうるのはなぜなのだろう?

彼らは、社会的な評価も名誉も求めない。世捨て人の風貌を持っているからではないか。

カジノを大きくした映画にもなったバグジーは、ギャングだが、それでもアメリカン・ドリームの語り草の一つにはなっている。翻って、我が国で誤発注とともにスポーツ紙に取り上げられた青年はなんだろう。

誤発注がなければ報道されることもなかったろう。その方が良かったのにと思う。

デイトレード自体を否定する気はさらさらない。

ただ、見たくもない現実をさらすきっかけになった。それだけが唯一の功労だろう。

(もしあれが何かの提灯であったとしたら、犯罪的である。晒す必要のない情報を晒したマスコミを許せるものではないだろう)。

加えて社会貢献だの、納税番付レベルの話を持ち出して、「日計り商い」の「社会的評価」を云々せずに居られない同世代の類似侯がワサワサ湧き出てくる事自体、実に情けない。

堂々と「ギャンブラーである」、「ゲーマーである」と、宣言すればいいものをと思う。

世捨て人にもなれず、かといってまともに社会に出ることも出来ず、といったどうしようもなさを、(そういうイメージを)図らずも露呈してしまう結果になった。


なによりも、黙って稼いでいればよい。株での儲けなど、他人に自慢するものでは本来ない。(これはあの青年に向けて言っているのでは無論ない。彼は自慢などしていない。本人には公表するつもりもなかったはずだ)。

インベストメントにはコミットメントが伴うとすればそれを吹聴するというのはそもそもおかしなことだろう。(日々の戦績をプラスもマイナスも客観的に記録するウェブログはこの限りに非ず。これはあくまでも記録の開示であって吹聴などではない)。

結局のところ、もっとも釈然としないのは、あの第一報である。いったいなんの意図があって報道したのか? イエロージャーナリズムと言ってしまえば、それまでだが、問題は、個々のトレーダーではなく、それ以上に日本の証券システムが抱える現状にあるだろう。立ち会いの復活?とシステム売買とのハイブリッド化など、システム一元化に棹さすものが何か必要とされてきているのではないか。


ソニー・ピクチャーズエンタテインメント
バグジー