オウム真理教は、チベット密教のタントラ・ヴァジラヤーナを換骨奪胎して「殺人」を正当化する理屈として取り入れていた。ヴァジラヤーナは、「死は幸いである」とする教えなので、殺人を正当化することには決してならないはずだった。
もし、それを強制的に他者に対して行使することを「理論的」に「正当化」しようとすれば、
ポアする者はポアされる者と同時にポアされなければならない、ということを宣言する必要があるはずだ。そうでないかぎり、「人類の寂滅」は完成しないからだ。
僕は、13人の死者を出し今も後遺症に苦しむ被害者たちが存在するサリン事件について、
麻原たちは、計画実行の後、どうしようとしていたのか? ヴァジラヤーナに近いとすれば、実行後の最終段階を計画に入れていないかぎり偽物に過ぎないと考えてきた。
実行後の最終段階が想定されていたのか、いなかったのか、それがずっと疑問だった。
大量殺人犯としての審判はすでに下っている。殺人犯としての彼らを今さら持ち出しても詮無い。
そうではなくて、そもそも宗教としての教理ができそこないだったのではないか、という疑問だ。
宗教団体以外でも、無差別大量殺人犯はいる。たとえば宅間は、自分の行為を否定しなかったが、死刑を望むと表明した。彼はその場で自死することはなかったが、海外の銃の乱射事件の犯人には、その場で自ら命を絶つ例が少なくない。
ポアする者はポアされる者と同時にポアされなければならない、というのはそういうことだ。
NHKの未解決事件を観て、ある程度、疑問は解けた。
しかし、麻原が獄中で自殺を図ったという話は聞かない。
人が人をポアすることなど、倫理以前に、論理的に不可能だ。
PS.
当時の捜査に携わった人々の発言「宗教団体だから遠慮した」や、ドラマ化された部分の台詞「それが宗教なんですか?」などは、すこぶるアジア的、日本的だ。宗教だからこそ、やれるのではないか。キリスト教やイスラム教の歴史は、大量殺戮事件や戦争で溢れかえっている。
日本の仏教や神道は宗教なのか?あらためて「宗教」とはなんなのかを捉え直すことになるだろう。