あの大揺れで、棚から振り落とされ飛び出して来た本の一冊。
3月の半ばから「揺れながら読む本」というカテゴりで書いておこうと思いながら、
出来なかった。
文字を追う紙の上を、活字と活字のあいだや行間を、
縫うように、白煙が流れ、水滴がしたたり、政治的現実という名の紙魚のようなものたちが、
もぞもぞと這い回り、
中断、もしくは集中を止めざるを得なかった。
なんにせよ、「読む」という意識が浸水し土砂にまみれ、
「書く」ことは号泣や怒号を越えることが困難になった。
それでも今この時に限れば、どこかのどかな汽車の旅かと誤解もされそうな揺れながら読む本は、
そういう意識の壁に小さなひびが走ろうとするなかを、
むしろ点滴のように向こうから染みわたるかのように、
「やって来た本」たちだ。
こちらから時間を消費するためにキオスクでわざわざ手にしようとするような本ではない。
そのかつてなかった「読み書き」に生じる意識をむしろ保持し、というのは矛盾に近いが、
浸水する意識を常態とするような営為の作法を、保持する、とは、揺れ続けることだが、
つねにそれを現在として引き受けることができるのかという、
まるで生態実験に向かう編集意志としか言いようがない。
それは一本の葦よりも弱く、たやすく折れるだろう。
言い換えれば「折れながら」、なのでもあるのだろう。
消してはならないが、消えそうになるもの、
つかみとっておくべきだが、
すぐに手のひらから滑り落ちていくもの。
それを生きることは可能なのか?
事実、物理的に積ん読の山の頂から降り注いできた一冊である『鏡の背面』は、
「可能である」「少なくとも可能にすべく努めることはできる」と宣告しているように思われた。
まっさきに目に飛び込んで来たのは、
目次、第十四章 第一節 「物理学的振動と生理学的振動」
だった。
(続く)