先週、松宮さんのオフィスで、『A6ノートで思考を地図化しなさい』第2作の打ち合わせをしているときに、あの二宮金次郎(尊徳)が、薪を背中に背負って、読んでいる本は、なんの本だったのか? が話題になりました。
いや、別にちょっとした雑談だったわけですが(笑)
猪瀬直樹さんのこの本も実に面白いですが、私たちは薪よりも、本に関心が向いた。
薪は、『報徳記』によれば、それで尊徳が学費を稼いでいたということになっています。しかし、
猪瀬さんの本は、「江戸の経済を改革する新たな金融モデル」の中核となるのが、
薪という「新商品」だったという、あっと驚く展開になっていて。
それはそれで目からウロコなんですが、だから、歩きながら読んでるあの本は?
一応、「教科書」だったのではないか、という憶測に落ち着いたわけですが。
いまではあまり見かけなくなった、薪を背負って歩きながら本を読む尊徳像は、明治以降、全国の小学校の校庭には必ず立っていたと言います。
一説では、子供を学校に通わせるのが「義務」化されることに抵抗のあった、農家の親たちに、学校は仕事と無関
係ではない、むしろ貢献するんだということを、アピールするためのものだったとも言われているようです。
当時は、子供も家業の大切な労働力、働き手だったからです。
「働き(稼ぎ)ながら学ぶ、学びながら働く(稼ぐ)」姿を、あの像でアピールしたかったのだろうという説です。
単なる、「勤勉、節約」ではありません。その点は、猪瀬氏の本と同じ見解ということになるのですが。
しかし、だったら、ちょっとおかしなことになります。本の居場所がなくなるのです。
本を読むのが嫌で、つまり勉強が嫌だから、「早く大人になりたい!」、
試験から解放されたい、「だから早く、大人になりたい」
試験や勉強からの解放を実現できるのが、社会人になるということだとしたら?
「勉強から解放された存在が社会人」なのか?
(その手前に大学があったりするわけですが、大学はいまやますます分かりにくい存在です)
確かに、「勉強」というと、なんか青臭い感じがします。
しかし、学校で学べないこともいっぱいある代わりに、
その学び方、活かし方も、きちんと教わる機会は、そうそう見当たらない。
せいぜいが、入社後の新人研修とか。
なんか、「壮大な無駄」がどこかにあるんじゃないか・・・
雑談は、飛んでもなく深く大きな疑問符にぶつかっていくのでした。
試験勉強と、勉強は違う?
じゃあ、その違う勉強の仕方は、どこで勉強するのか?
それが「社会勉強」?
どこまで行っても、つかめない「勉強」の実体・・・
「勉強」ってなんのか?
そろそろ、このあたり、はっきりさせないといけないんじゃないか?
雑談のつもりが、めぐりめぐって、限りなく本題に近づいていく不気味さを(爆)
この尊徳像が、象徴することとなったのでした。
追記:
ブームの続く「勉強本」・・・
これ、あてがわれた学校の「教科書」の代替品であるとしたら・・・
ひょっとして、壮大な無駄の再生産なのかもしれません。