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今日は、日記を書きたいと思います。



1月17日、午前5時46分。

13年前の今日、阪神淡路大震災が起きました。



この時私は看護学生で、大学病院での実習のために前日に大阪に入ったばかりでした。


実習初日のこの時間、大きな縦揺れに、ただ布団の中で小さくなっているしか出来ませんでした。

吊り型の電気は天井に何度もぶつかり、ダンボールに入れたままの荷物は全て飛び出して・・・。



被害の中心部からは少し離れていたので、建物の倒壊は少なかったのですが、一歩外に出ると、道はヒビ割れし、ただただ暗かったのを覚えています。


引率の先生が、とんでもない事が起きたのでは?と、私達を連れ、大学病院まで走りました。



私達が病院に着いたとき、自家発電が作動し、病院だけ電気がついている状態でした。


椅子や医療器具が散乱している。

余震が続く中、私達は四つん這いになって、階段をのぼりました。



病棟に着くと、そこは薬液の入ったビンや注射器、医療廃棄物が散乱し、足の踏み場もありません。

病室のドアはスライド式なのですが、揺れで歪みが生じたらしく、患者さんが病室に閉じ込められているような状況でした。



元々、2ヶ月の実習期間のはずでしたが、先生に「これ以上余震が続くのであれば、みんな免許(准看護師)を持っているのだから、帰れないからね」と言われ、自分の置かれた状況を知りました。




病棟では、医者や看護師さんが走り回っていました。


自家発電が作動するまでの間に、バッテリーが付いていない人工呼吸器が動かず、数名の患者さんが救命処置を受けている最中。


病棟には、緊急用医療カートがあるのですが、アンビュー(手動の呼吸器)は2つしか常備されておらず、結局2人の患者さんが命を落としました。



不思議と救急車の音は少ない。

しかし、1Fのロビーは患者さんで溢れています。


後で知ったのですが、道は車が通れる状況では無かったのです。

そこから数日、道路は自衛隊の車以外はほとんど走りませんでした。


看護師さんに長靴を渡されました。

私達の実習は、ガラスや廃棄物の掃除から始まりました。




お昼を過ぎて、患者さんのテレビから、震災中心部の映像を観ました。

悲惨な光景と、それを受け入れる間もなく積み重なって増えていく数字に、目を疑うしか出来ません。




友達が神戸にいたので、安否がすごく心配でした。



1ヶ月後にその友達とようやく連絡が取れ、私は単純に無事を喜びました。

しかし、彼はいつもの元気がありません。



彼は、瓦礫の下から数人の人を助けたそうです。

みんなで力を合わせて、凍える手も忘れて素手で瓦礫を掘り続けました。


救った人たちには大変感謝されたそうです。

しかし、彼は自分の大切な人を失ってしまいました。



彼は、倒壊した瓦礫の下から、彼女の声を聞きました。

「助けるから!」と必死に掘り起こしましたが、すぐに瓦礫は火に飲み込まれてしまったのです。


最初、「助けて」と聞こえていた声は、火が近付くにつれて変わりました。

彼女の最期の言葉は、「もういいよ。危ないから逃げて・・・。」



彼は13年経った今でも、彼女を助けられなかった自責の念に胸を痛めています。


今、「死」に直面している人間が、自分の身の危険を心配してくれていた。

託された「命」とどう向き合うべきか、残された「命」をどう燃やして生きるべきなのか。


「どうでもいいや、関係無い」が口癖だった彼は、この日を境に一切それを口にしなくなりました。



病院でも、救えなかった命が沢山ありました。

最期の処置ですら満足に出来ず、見送ることすら出来なかったあの日のことを、私は忘れません。




死者・・・6437人。



今、簡単に「死ね」とか「消えろ」とか言う人がいるけどね、


このとき、「死んでいい人間」なんて、1人もいなかったよ。




今日は、5時46分よりも前に目が覚めたので、時間に黙祷をしました。


そして、小さく揺らめく火を見つめながら、改めて限りある命を大切に燃やしていきたいと、強く強く、思いました・・・。



亡くなられた方のご冥福を心からお祈りします。。。



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