汐留ベヒシュタインサロン 2013年11月3日
(曲名は文末にまとめてあります)


「色とりどりのメロディーの乱舞が
 翼をたたむ舞台の終わり
 あなたの思い描く景色はどこだろうか?」

今回のチラシにライティング担当として書かせていただいた文の最後である。
観客の皆さんは、はたしてどのような景色をご覧になっただろうか。

私の心の中はこうだ。

大輪の石楠花、鮮やかな芥子の花、無数のカラフルな花という花がアルプスのように澄んだ山の斜面一杯に咲き乱れている。地上であるのに、花を積んで(摘むのではない)空に階段を築いて行く場所に誘われていた。そんな景色をおぼえた。さて、どうやってそこまでたどり着いたのだろう? 

阪田君の舞台は今年の春に一度拝聴している。あのときの印象、「ダイナミズム」より今回のライティングを起こしているのだが、結果は予想以上だった。(内藤氏に関しては後述)

一部の終わりに内藤氏と阪田君の休憩室におじゃまして再会。

最初に申し上げたのは「ずいぶんとアメリカの大舞台を経て(ご存知ヴァン.クライバーン国際ピアノコンクール最年少ファイナリストの舞台の数々だ)雄々しくなられましたなあ」だ。

ご本人、きょとんとされて「え?僕自身がですか? 音ですか?」とのご返答。答えは其の両方ではないかと思う。

例えばプログラムは前後するが、印象を記すならヘンゼルト「もしも私が小鳥だったら」(舞台上、内藤氏の休憩もかねて最後のラフマニノフ前に緩やかな時間を作り出すものだったと思われる)。

小鳥など役不足、雄々しい鷹、あるいは鮮やかなブッポウソウが翼を広げて飛んでゆく。クジャクのような観賞用の鳥ではない。もはや【緩やか】ではない。しのぎを削ってきた若い掌は、pppを弾こうと小さな鳥などにはなることもないのだ。飛翔力の力強さに釘づけられた。春に聞いた舞台との差に驚いてしまう。まだ伸びるのだ、という喜び。まだ変わるのか、という天井知らずの期待。

一方、内藤氏。彼の舞台は出来るだけ通うようにしてきているが、一貫して彼の演奏は「水」だと言い表してきた。ところが今回はどうも勝手が違うのだ。

今回、プログラムでもお二人が作り上げてくる過程の楽しさ、愛着を内藤氏が文章に対話形式で起こしてくださった。そのことにより、ファンはお二人の舞台前を想像して楽しんだ。其の中でもご本人がセコンド気質だと明言なさっている。つまり、いつものように1stの方に潤いを、場合によっては噴水のように吹き上げてあげるような音運びを期待していた。

初めて内藤氏の音に日の光を感じた。
それはほのぼのとしたぬくもり。まるで阪田君の若さや情熱が伝播したような体温。もともと内藤氏の音は観客が元気なときも(あるいは床に伏しているときも)一杯の水のように清らかでのどごしが良く、聞くことが出来る。ところが今回はセコンドといいながらまったくもって地下水脈ではない。曲が変わるごとにめまぐるしく花を開かせる、それも大輪の花をいくつも咲かせてしまう若き後輩に、さんさんと日の光を投げかけるような音運びだった。空気がきれいな、一番空に近い場所まで昇り行くことが出来る恵まれた才能をささやかれる阪田君。けれど、内藤氏は先達の慈愛を(あるいは音楽的な期待を)どこの高さまで昇っても温かな音運びで促す。

さあ、開け。
もっと咲け。
より高く飛べ。

内藤氏のピアノは、ダイナミックで止まる所を知らない阪田君の音をどこまでもきららかに飾り立てる。美しい花が、より鮮やかに見える音。飛んでゆく鳥の翼が力強く見える音。それが今回のあたたかさだった。

プログラムとしてはチャイコフスキーが凄まじい対比を感じた。お二人の持ち味が分かりやすく、楽しませてもらった。こんなに違う個性なのに一つになっている。それもまた深い相互理解の上で、楽しんで作り上げた形なのだろうと推察している。

セコンドをこなせることと、セコンドを愛することが違うのは今回の舞台で納得したし、お二人が入れ替わるたびに手元を観ては、あるいは耳を澄ませては、いずれも美味、美味。なんて観衆は欲張りなのだろう。このお二人だと次は何を仕込んできてくださるのか。阪田君のご成長は若いゆえにまだまだ急であろう。サプライズだらけであろう。

ゆえに1年後、2年後と区切りをもうけて、また私たちを誘ってほしい。今度はどんな景色を見せてもらえるのか。

ひとつ、やや個人的な感傷を書かせていただく。
内藤氏が選んだショパンの即興曲第3番は、ショパンが深く愛し合ったジョルジュ・サンドと過ごしたノアンで書きだめされた作品の一つだということだった。ノアンにおいて二人の芸術家の蜜月、それは恋愛というよりもパリの社交界より離れて創作に没頭する巣という役目が大きかったという。

プログラムの対話形式を拝読したせいなのか、お二人が演奏家として、クラシック愛好家として(内藤氏はご自身、阪田君をクラシックオタクと称しているのだが)舞台を作り上げた時間はノアンのように満ち足りた敬愛の空間だったのではないかということだ。

内藤氏の演奏を好む私としては、いつでも何にでも寄り添える彼の「水」体質を愛してきた。けれど、今回の音に滲んだあたたかな陽の色は、彼の演奏の更なる魅力になったのではないかと思われた。僭越ながら、お二人が過ごされた過程で水の音が陽の光にも変化するのならばお二人のノアンは魔法の玉手箱のようなのだろう。是非またこの組み合わせで聞いてみたいものだ。何が飛び出すかと思うと楽しみである。


【曲目】
モーツァルト:2台のピアノのためのソナタ K.448
チャイコフスキー:バレエ組曲「くるみ割り人形」Op.71a(エコノム編曲2台ピアノ版)
ショパン:即興曲第3番 変ト長調 Op.51(Pf. 内藤晃)
ヘンゼルト:12の演奏会用性格的練習曲 Op.2より第6曲「もしも私が小鳥だったなら」
リスト:2つの演奏会用練習曲 S.145より第2曲「小人の踊り」(Pf.阪田知樹)
ラフマニノフ:2台のピアノのための組曲第2番Op.17 ほか
アンコールはDebussy: Clair de lune/Dutilleux編曲











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