国民イコール税源か? | Nana's Cafe something new

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カフェの片隅のように落ち着いて、ふと人生を考えたり、何か新しいことに気づける・・・そんなひと時をご一緒できればと思います。

 編み物をしながら、国会中継を見ていました。

 そのなかで公明党の松議員の発言がとても興味深いものでした。

 彼女は癌は予防できる病気であり、予防の取組をもっと政府がするべきだという趣旨の発言をしていました。

 私が興味を持ったのは、なぜ癌や、その他の病気の予防に政府が力を入れなければならないか、国として取り組まないといけないかという理由の点です。

 つまり予防するのにかかる費用と、実際に国民が病気になったときにその費用として国が負担しなければならない金額の対比をした場合、予防費用のほうが少ない。つまり安く済むということ。

 また、国民が病気になって働けなくなった、あるいは死んでしまって働けなくなってしまったとき、それは税収の減収につながる。

 松議員がおしゃったのはこのようなことでした。


 私はそれを聞いていて、こう思いました。

 つまり税収確保のために、国民には健康でいてもらわなければ困ると考えているのだないうことです。

 健康で長く働いて、税金をもっと納めてもらいたいと。

 
 国からみて、政府からみて、国会議員の立場からみて、国民は喜怒哀楽のある人間ではなく、¥マークのついた税収額でしかないということではないでしょうか?

 非正規雇用の人間が多い=税収が少ない、もしくは不安定であるから、正規で働いてもらいたい。

 昔、女性は専業主婦になるのが普通でした。それをウーマンリブだなんだと女性をたきつけて、女性は男性とすべての点において対等でなければならぬという意識を植え付け、男女雇用機会均等法などを作って、女性も男性なみに働けるようにしたのは、つまり人類の半分からも税金を取れるようにしたかったからだと聞いたことがあります。


 もっと古い話を思い出すなら、戦争時、兵隊に対して上官が言った言葉「お前ら兵隊は一銭五厘のハガキ一枚でいくらでも来る」と。それはつまり、一人の成人男性より馬のほうが高価であることを意味しました。
 「産めよ増やせよ」の標語は、国民数を上げることによって、兵隊の数を増やすことにほかなりません。
 男たちは馬以下の扱いで外地で死に、女は子供を産む機械のように扱われていた時代のことですが・・・。

 現在も、国の意識は何も変わらない。

 何党が政権を取ろうが同じことです。


 国とは国民が集まってできているものであるにもかかわらず、古今東西、常に政府は国民を牛馬か税金としてしか見ては来なかったのです。


 今リビアで、カダフィ大佐が国民を空爆していて人権に対する罪を犯していますが、働き手が減ったら税収が減るからという理由で、独身者には相手をみつくろって結婚させようとする。正規で働かせようとする。病気にさせまいとするという考えだって、人権を踏みにじる考え方ではないでしょうか?

 政府肝いりで結婚でき、子育てでき、正規で働け、病気予防のキットを送ってきてもらえるなら、それは良いことのように思えるかもしれませんが、逆をかえせば、無生産者は邪魔な存在だということではないでしょうか?

 子どもはいない、仕事はない、生産的な能力もない、病気はする・・・そんな人を対象に50歳安楽死法案が通ってしまうかもしれませんよ。