もう一度聞いてみたい愛の言葉がある。

 

もう一度ふれてみたい温かい手がある。

 

もう一度優しく撫でてあげたい柔らかい頬がある。

 

 湯気に包まれたバスタブで,濡れた髪が貼りついたまま,二人でそっと合わせていた額のぬくもりが思い出されてならない夜がある。

 

 闇にまぎれて二人してベランダに立ち,淡い月明かりに揺れる海を見つめながら,

 

千代の別れが迫るのを言葉もなく忘れようとしていた胸迫る時が,潮騒のさやけき音色と共にリフレインし続ける日がある。

 

 まるで置手紙のように胸に沁みた,一人の部屋へ帰って脱ぎかけたシャツの胸元から微かに立ち上ってくる愛するひとのいとおしい匂いが,雑踏の中でふいに甦る瞬間がある。

 

 初めて抱き寄せた時に合わさった胸から,まるでこれからの陶酔と情熱への前奏曲のように,狂熱の予感さえ滲ませながら伝わってきた命のぬくもりと柔らかさが,

 

ホームに滑り込んでくる電車を知らせるアラーム音が耳朶を打った時に,セピア色にくすんだ二人の光景と一緒に眼前に鮮やかに浮かぶ昼下がりがある。

 

「そんなことはない?」と問えば,

 

最後のひとを探しているのと口癖のようにいつもつぶやく恋多き女性は,

 

 アンニュイなオーラをまとった魅惑のまなざしを,バーテンダーの後ろに煌(きら)びやかに並べられた美しいボトル達にゆっくりと遊ばせながら,

 

「いつもよ。夜がね,そっと忍び足で私の部屋まで連れてきてくれるの」と静かに微笑んだ。