もう一度聞いてみたい愛の言葉がある。

 

もう一度ふれてみたい温かい手がある。

 

もう一度優しく撫でてあげたい柔らかい頬がある。

 

 湯気に包まれたバスタブで,濡れた髪が貼りついたまま,二人でそっと合わせていた額のぬくもりが思い出されてならない夜がある。

 

 闇にまぎれて二人してベランダに立ち,淡い月明かりに揺れる海を見つめながら,

 

千代の別れが迫るのを言葉もなく忘れようとしていた胸迫る時が,潮騒のさやけき音色と共にリフレインし続ける日がある。

 

 まるで置手紙のように胸に沁みた,一人の部屋へ帰って脱ぎかけたシャツの胸元から微かに立ち上ってくる愛するひとのいとおしい匂いが,雑踏の中でふいに甦る瞬間がある。

 

 初めて抱き寄せた時に合わさった胸から,まるでこれからの陶酔と情熱への前奏曲のように,狂熱の予感さえ滲ませながら伝わってきた命のぬくもりと柔らかさが,

 

ホームに滑り込んでくる電車を知らせるアラーム音が耳朶を打った時に,セピア色にくすんだ二人の光景と一緒に眼前に鮮やかに浮かぶ昼下がりがある。

 

「そんなことはない?」と問えば,

 

最後のひとを探しているのと口癖のようにいつもつぶやく恋多き女性は,

 

 アンニュイなオーラをまとった魅惑のまなざしを,バーテンダーの後ろに煌(きら)びやかに並べられた美しいボトル達にゆっくりと遊ばせながら,

 

「いつもよ。夜がね,そっと忍び足で私の部屋まで連れてきてくれるの」と静かに微笑んだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

葉隠に 散りとまれる花のみぞ 忍びしひとに逢う心地する」

 

「恋死なむ 後の煙にそれと知れ 遂に漏らさぬ中の想ひは」

 

鍋島論語とも呼ばれた佐賀藩士の書「葉隠」が理想とした恋愛は忍ぶ恋だった。

 

死生観,恋愛観,行動哲学にも及ぶ書。

 

夜半の嵐に,花散らしの雨にと,儚く散りゆく桜花の残影を刻む弥生の霞んだ空を見上げながら,

 

性愛をあまりに安直に手に入れられる時代に生を受けた不幸を痛感した歳月と,

 

それがゆえに時折思い出す,早くに世を去った永遠の面影を軋ませる春の昼下がり。

 

如月は逃げ,弥生は足早に去る。

 

三島由紀夫が喝破した如く,獲得と性急な欲望の充足と情熱の死を繰り返していると,恋は深まりも広がりも失い,陳腐な繰り返しに堕して,その息づきを早くに止めてしまう。

 

成就しなかったがゆえの,胸深くにたたみこんだがゆえの,伝えなかったがゆえの想いの結晶は,

 

神が人に与えた永遠を思う思いを豊かに実らせ,まなかいに幾度もたちもとおる影に,不死のかぐわしい美の幻影をまとわせて尽きない。

 

たとえ,そのいとおしい面影を刹那に重ねながら,底深い寂寥を宥めるためだけの乾いた情熱を,偽りの優しさで包んだ相手に浴びせる不実の時を重ねていくとしても。

 

男とはやはり,悲劇的な生き物なのかもしれない。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ありありと先が見えていても伝えられない言葉がある。

 

「それが貴方の今を作ってしまったんだ」と思っても,絶対に言えないことがある。

 

繁華街から遠く離れた郡部で育った少女は18の春に県庁への採用で初めて都会に出た。元来が地味な世界で,彼女がその美貌からチヤホヤともてはやされるようになるのにそう時間はかからなかった。

 

男性と深くつきあったこともなく,男兄弟のいない環境で育った

彼女には,どこか男性を甘く見るところがあって,

 

群がって誘ってくる男性達の視線に舞い上がっていた心の隙を巧みに突かれ,雨の夜に簡単に部屋に上げた同僚に力づくで犯されてしまった。

 

「モノにした!俺が第一号だ!あいつまだ知らなかったぜ」と言いふらされた彼女は「こんなものだったのか」と無理に思い込もうとして,

 

男達の誘いに簡単に乗るようになり,これが狭い世界で噂が噂を呼ぶようになって,お定まりの「ちゃんとした男をつかめないルーズさ」に嵌まり込んでしまった。

 

そのうち,遊び友達の男女が何組も集まった酒の席で,ステディだと思い込んでいた見栄えのいい男から「こいつの具合は太平洋に浮かべた小舟なんだゼ~」とさんざん笑われ,

 

「最低だ!もうこれとはやっていけない」と思って彼と切れた直後に,同窓会で再開した同級生から結婚を切り出され,一も二もなく目の前にあった環境の変化に救いを求めてすがりついたのだった。

 

公務員の安定収入をアテにしてギャンブルにのめりこむ夫との間に次々に子供だけは産まれたが,

 

常に出産と退院は一人きり,彼は育児にも全く手は貸さず,外面だけは上手に繕う夫の姿に心底嫌気がさし,かといって別れるのも世間体が悪いとズルズル暮らしが続く中,

 

昔の噂を聞きつけた男達からダブル不倫の誘いが当たり前のように続くようになり,ウサ晴らしにと乗れば,これがまた連鎖反応を起こすように他の男達へも伝わっていった。

 

狭い自治体の社会では,異動のたびに,あるいは集合研修の宴席に出るたびに何かと話題にされ,それがいつしか夫の耳にも入るようになった。

 

果てしない不倫中毒に陥る中,男に遊ばれながら自分もウサを晴らす日々,コキュ(寝取られ男)であることを恥知らずにも親戚中に言いふらしながら,

 

妻をそこへ追いやった自分の仕打ちには思い及ばず,あげくは遊ぶ金欲しさにコソ泥まで働いて懲役を打たれてしまった夫に愛想を尽かした頃,

 

山積する仕事に手がつかず,夜遅くのデスクで肩を震わせて泣き崩れているのを見かねて声をかけた同僚の優しさに心惹かれた。

 

以前から続いていた男はキープしたままで,この同僚との時間も作るようになり,続いていた男の存在を彼に感づかれると,新しい存在を手放したくない一心で直前の男を切った。

 

「私のドロドロしたこれまでを知ったら,きっと貴方は後ずさりして去ってしまうでしょう。私は愛される価値のない女なんですと初めに言ったんです」と彼女は私に言った。

 

「その総てを包んであげたいから,ずっと重たく抱えてる事をなるべくそのままで僕に話して。言いたくないこと,思い出したくないことまで無理に聞き出そうとはしないから」と彼に言われ,

 

救われた思いがして,もう40才を前にしながら,年下の彼と最後の夢を真剣に見たいと思ったのだという。

 

「最後のひと」に勧められ,励まされ,肩を押されて,一人で生きてゆく決心を固め直した彼女は,欲望に身を任せつつズルズルと続けていた結婚にピリオドを打つことにした。

 

懸命に働くうちに次々と子供達から手が離れていき,重ねる逢瀬に幾度もの春夏秋冬が降り積もったが,いつしか「最後のひと」は人変りがしたように他の女達を漁り始めた。

 

典型的な仮面夫婦であった彼は,情熱の薔薇を注ぐ相手を常に求めてやまないことで精神の安定を保つタイプだったらしく,始まりの頃にこまやかに注いでくれた優しさはすっかり影を潜め,

 

露骨に彼女への倦怠感を見せるようになり,他の女達の影を隠そうともしなくなったのだという。

 

「私は諦めきれずに追いました。詰(なじ)って,泣き喚(わめ)いて,あの頃に帰ってとすがりました。もうプライドなんかない,最後のひとだと思い定めたのに,一人で歯を食いしばってきたのに,どうしてここへ来て裏切るのかと悔しくて悲しくて」

 

「それからは仕事を何度も放り出すようになって,公務員だから解雇なんてされないんだけど,どんなにプライベートがキツくても,こんな私じゃなかったのに」

 

「こんなに年を取ってしまって,これでもう,誰からも誘われない,抱く気も起こされない女になっていくんだわと思うと薬に頼らないと生きていけないんです」

 

そう話し終えると彼女はうつむいて唇を噛んだ。

 

私は,多くの男から愛された,そして多くの男を愛した唇が震えているのを見た。涙が頬を濡らしていくのを見た。

 

今は血管の浮き出た手の甲が艶やかだった頃,乳房が萎びて垂れていなかった頃,足首に隠せない年齢が滲んでいなかった頃,黄ばんで使い古された歯並びが白く輝いていた頃,

 

情欲にせよ,同情にせよ,多くの男達の胸をときめかせた魅力は歳月の前に跡形もなく消え失せてしまった。

 

愛を築けなかった始まりとなった時が彼女を捉えた瞬間を誰も咎めることはできない。人生は時として情け容赦なく無慈悲なふるまいをする。

 

どう強弁しようが,男女の事の始まり方によってはやはり女性は深い傷を心身に負ってしまう。

 

そこで野放図な情熱と虚栄に身を任せても,たどる末路は似たりよったり。そこを狙って群がってくる男の質は,どうしても類は友を呼ぶになりがちだから,歴史は繰り返していく場合が多い。

 

それはハードパンチャーのたいがいがドランカーになってしまうようなものかもしれない。

 

思うがままに自由に生きたツケは必ず回ってくる。人は朽ち果てる前に,多かれ少なかれ必ず哀惜の念に苛まれる日々を迎える。

 

人生はアイロニーに満ち,どこかで帳尻を合わせなければならない。

 

やはり,先が見えてはいても絶対に伝えられない言葉というのはあるのである。

 

  人生の痛切な終着駅に降り立つ日