川上さわ監督『地獄のSE』(2023)考。半眠りなら何でもアリ | 映画遁世日記

川上さわ監督『地獄のSE』(2023)考。半眠りなら何でもアリ

 

[最初に:若干長文になってしまいました]

 

本年度(2023)の「カナザワ映画祭/期待の新人監督」が閉幕しました。参加された作品のスタッフ、キャスト、関係者の皆様には、濃厚な三日間を堪能させて頂いたことへの感謝の気持ちしかありません。本当にありがとうございました。

 

映画祭のラストプログラム「授賞式」では、2021年度の観客賞『全身犯罪者』や、商業映画デビュー作のくせに完成度がバカ高い抱腹絶倒アクションホラー『オカムロさん』で知られる松野友喜人監督のお隣の席になりました。授賞式が始まる直前の会話で松野監督は「なんだかんだで(コンペ作品外の)『地獄のSE』が一番面白かったです」と仰り、僕もそうだったので「僕もです」と返しました。

 

ところで、本ブログもどき記事の本筋とは関係ないところなのですが、この時僕が松野監督に対してドヤ顔で予想した『ボクが考えた「期待の新人監督」グランプリや観客賞』はドン引きするくらいの外し方をしました。僕は松野監督の作品もさることながらそのお人柄もとても大好きだったので、とても恥ずかしい気持ちになりました。さようなら松野監督。

 

川上さわ監督と松野友喜人監督。その若き狂ったパワーで全世界を焼き尽くせ

 

さて、この映画祭に参加したことがある方はお分かりの通り、この映画祭はとてつもなくハードであります。膨大な上映作品数、トイレの時間もあるかないかの休憩時間、その日のプログラムが終われば、仲間がいる方であれば夜の夜中まで「あの映画はこうだった」「この映画はこうだった」談義等でドンチャン騒ぎ。全スケジュールが終われば、死んだように眠る、、、、はずでした。

 

何故か今回自分は夜中(3時は過ぎてた)に目が覚めてしまいました。授賞式の中のあるシーンが何度も何度も頭の中でリフレインされるのです。「(地獄のSE)の川上監督、あの方は映画的偏差値が高過ぎてヤバいです」「あれ、全部確信犯的にやっています」(このような台詞だったかな?)そう仰っているのは審査員のひとりであられる佐藤佐吉さんです。ちょうど自分が座っていた席が佐藤さんの正面寄りだったこともあり、きっちりそのビジュアルを伴ってリフレインされてくる。「やめてください佐藤さん、僕は眠いんだ。怖くて寝れないじゃないですか」

 

そしてついに今度は『地獄のSE』のことばかり考えて眠れなくなりました(コドモか)。

 

『地獄のSE』を観終わったとき、一緒に鑑賞していた友人に向かって僕が言った感想で明確に覚えているのは「すげぇ面白かった」「西尾(孔志)監督の昔の映画にちょっと似てるかも」だったか。滅茶苦茶面白く感じたのだけれど、それを何と表現すればよいのかわからん状態。そういう方も少なくなかったのではないかと思います。

 

そんなこんなで唖然としながら喫煙所で煙草を吸っていたところ、カナザワ映画祭の小野寺くんがこちらのほうに来たので「面白かったわ!」と伝えました。で、「んじゃ!」(シュタッ)と帰ろうとしたところ、小野寺「面白かったのなら監督に伝えてくればいいいじゃないすか」ぼく「えー(それもそうなのかもしれないなぁ)恥ずかしいから小野寺くんも付いて来てよー」小野寺「ニヤニヤ」←付いて来ねぇ

 

監督に「すごく面白かった」ことへの感謝の意とともに伝えた感想は「70年代や90年代の雰囲気を感じました、が絶対2000年代じゃない!」というくそダサなもの。その時川上監督は笑顔でこう仰ったはず。「はい!60年代(以下記憶微妙「60年代の空気感とかも狙いました」といったところなのかな?)」その時は「エッ、60年代はどうなんだろう?」「そんな感じまであったかな?」と自分は思ってしまったように記憶します(結論からいうと60年代風味はあったのです。とっさに浮かばんかい俺)。

 

それから、『地獄のSE』を観た者全員が感じたであろうあの音声(整音)。この作品を気に入った人でもそうでなかった人でも必ず「この映画の音声は聴き取りにくい」で一致するハズ。が、しかし、いくらなんでもアレは極端すぎる。あんなのは2020年代の技術をもってすればどうにでもできるはず。登場人物の台詞よりも歩く音のほうが馬鹿デカい、ひとつの台詞の中で声の聞こえ具合が違う、他、いろいろいろいろ、というかもっと派手なのを含めそれこそ全編に渡ってである。

 

と、こんなことを半眠りでずーっと考えていたのです(きんもっ)。冒頭で書いたように「ドヤ顏で予想したことを思いっきり外すことはダサいし恥ずかしいこと」なのですが、なぁーに半眠り状態で浮かんだことは夢みたいなもんだから当たりもハズレもありゃしない。ということで、『地獄のSE』とは何者なのか。「70年代~90年代だけじゃなくて60年代もあるんだよ」「整音は〈ああなってしまった〉どころか、明確な意思の元、丁寧にあの状態まで練り上げ、作り上げました。あの音声を不快に思われた方がいたとしたらそれは大成功ともいえます(そもそもタイトルがタイトルだし)」。。。

 

乱暴で身勝手な解釈になりますが、この映画は雑誌でいうところの「月刊太陽」とか(安直すぎてナンですけど)「月刊イメージフォーラム」みたいなもんなのではないかと。60年代~90年代の実験映像、実験映画、個人映画、自主映画、ピンク映画、ビデオアート、的なるモノ(僕はそれをまとめて「挑戦映画」と呼びたい)たちへのオマージュもしくは同化作なのではないかということです。21歳の女性がそんな奇々怪界なもんに挑んでいるなんて世界中見渡しても見つからないんじゃないかな。しかもその手法を使いつつ、ある程度エンタメ要素やカワイイ要素や、まんま王道(?)アングラ映画要素まで詰め込んでくるのだから、これはもう手が付けられないバケモノです(夢なので好き勝手書いてマース)。そう考えているとワクワクが止まりません。これまでの「カナザワ映画祭/期待の新人監督」参加監督さんでこんなにヤバい監督さんいただろうか?と考えてみた。路線的には違えど、『阿呆の舞』でカナザワ参戦、その後長編『クマ・エロヒーム』を撮った坂田貴大監督が浮かぶくらいか。作品単体だと20年代30年代ヨーロッパゴシック怪奇映画的な『阿吽』(楫野裕監督)や近年では『クールなお兄さんはなぜ公園で泥山を作らないのか』の保谷聖耀監督も大雑把に分類するとそっち寄りなのかもしれない(マジおおざっぱ)。

 

ネット上に川上さわ監督のインタビュー記事でもあればその正体に近づけるのかもしれませんが、謎は謎、夢は夢のままでええやないかーいという気持ちもあります。自分で勝手に腑に落ちてきたところで佐藤佐吉さんの姿も光り輝きながら消えてゆきました。やっと眠れる。おースッキリした。勝手にスッキリした。夢だし、なんでも書けるのだ。

 

追伸:自分は私事でカナザワ映画祭の全行程に参加できず、こともあろうかグランプリ作『散文、ただしルール』を観ていません。今となっては悲しくて悔しくてしょうがないです。だもんだから、どうかイメージフォーラム社さん(だから安直だっちゅうねん)、川上さわ監督集のソフト化を急いでください