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小さな私が出会った、日々の出来事について。

『看護の日』の記念行事である「看護ふれあい体験」に参加しました。

中学生・高校生も参加できるものだったので、

正直にいうと、“看護師さんごっご”的なものかも?と想像していました。


…が、行ってみたら大間違い。



私が、ぼぼ1日過ごしたのは、

脳神経外科・神経内科・腎臓内科・血液透析科の病棟。

厳しい状況にある患者さんが、多数入院されている。


そんな中で、参加者の志望動機をできるだけ尊重しようと、

指導係の看護師さんは、熱心にアレンジして下さった。


ちなみに、参加者は、

看護大学受験予定の高校3年生、

就職活動中の大学4年生(看護学校への進学も検討中)、

家族が要介護になった社会人、

そして私。


このメンバーでの「看護ふれあい体験」は、

通常の体験と比べて、より実践的になった模様。



考えさせられることは、たくさんあったけれど、

なかでも、一番印象に残ったのは90代のお爺ちゃんとの出会い。


このお爺ちゃん、脳内出血の影響で、

左手がわずかに動かせる以外、全身は麻痺。

経気管による人工呼吸管理がされており、

食事は、経鼻胃管栄養療法により注入食。

意思疎通するのは、かなり困難な状況でした。


そんなお爺ちゃんの、清拭、寝衣交換、口腔ケアを

見学(部分的にお手伝い)させてもらう。


この年代の方にしては、身長が高くて、脚が長い。

きっと、若い頃はモテただろうな。

戦争も体験したはず。どんな人生だったんだろう?

痩せて、流木のような佇まいのお爺ちゃんの身体に触れながら、

そんなことを考える。


お爺ちゃんのベッドから離れた後、大学生が言いました。

「“ああいう状態になってまで、生きる意味ってなんだろう?”と思ってしまいました。。。」


その言葉を聞いて、

私は、自分にはそういう視点が全く無かったことに驚いていました。


『生きている意味があるかどうかは、本人にしか判断できないことだ。』

と決めつけて、完全に思考から追い出していた気がする。


…この辺りをいい加減にしていると、無関心の始まりになりそうで、

私は自分を恥ずかしく思いました。


思えば、自分も学生の頃、彼女と同じことを感じた時期があったのに、

すっかり忘れていたのです。

どこかの時点で、思考停止したんだと思う。



でも、あの頃より、私も少しは大人になったので、

  「ああいう状態になってまで、生きる意味ってなんだろう?」を

→「どうすれば、あのような状態でも、生きていて良かったと思えるだろう?」

と、問題を置き換えることはできるわけで…。




で、さっきの大学生の問いに、指導係の看護師さんはこう答えました。

「…そうね。

 私はね、その状態の中で、その人らしくあれればいいと思うんです。」



“あのお爺ちゃんの、お爺ちゃんらしさを大切にできる看護って、どんなだろう?”


体験を終えた帰り、

色んなことがありすぎて、

ピントがぼやけたようになっている頭で、考えた。


答えは、出ない。


あれから、約3週間が経ちます。


ふとした瞬間、あのお爺ちゃんの、

少し乾燥した大きな手の感触が、澄んだ茶色い瞳が思い出されて、

また、考えます。


答えは、出ません。



『Don't Think. Feel!!(考えるな。感じろ!!)』

と言ったのは、ブルース・リーだったけれど、

『考えることを止めてはいけない。』

と言ったのは、誰だったっけ?


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『思考停止』って、そもそもどういうことだろう?

って考えてたら、こんな記事を発見。

とても勉強になります。


■ほぼ日刊イトイ新聞 おとなの小論文教室―感じる・考える・伝わる!

  Lesson44 自分の「思考停止ポイント」を発見する