連載再開では無いとか言っておきながら、もう一回パクリング。(笑)
今月初めに、このブログのコメント欄でも良くお世話になってるxiaoke氏がエンコリでスレッドたてられてまして。

▲もののついでに【獄長に捧ぐ、かも】

コメントで私が書いているとおり、昨年の1月24日のエントリーの1894年(明治27年)6月1日発電で、「See 機密第63号信 dated 5月22日.」と書かれており、「この5月22日付『機密第63号』は見つけられていない」としていた、1894年(明治27年)5月22日付『機密第63号』という事になります。
xiaoke氏、多謝。

さて、その当時のエントリーでは、「文脈から見れば、今回は中止になったから良いけど、もし清国が出兵したらどうすれば良いという文か、袁世凱と閔泳駿の密約の話でしょうなぁ。」とか言ってますが、果たしてどうなのでしょうか。
そんでは、早速中身を見ていきたいと思います。
『日本外交文書27巻第2冊』より、1894年(明治27年)5月22日付『機密第63号』。

機密第63号 (クリックで拡大)

全羅忠清両道の民乱に付鄙見上申の件 機密第63号本42
5月28日接受

全羅忠清両道内に乱民蜂起し、官吏を逐ひ、城邑を屠り、其勢猖獗を極むる事は追々の報告書に拠て御承知相成候義と存ず。
今日迄の報告に拠るに、乱民の占拠若くは横行したる市邑は、全羅道に在りては古阜、泰仁、扶安、金溝、井邑、高敞、茂長、羅州、咸平、務安、霊光等の各邑。
忠清道に在りては懐徳、鎮岑、青山、報恩、沃川、文義等の各邑に有之候へば、全忠両道の凡3分1に相跨り候に付、当国に取りては実に容易ならざる変乱に有之候。
加之近年其他の各道とも所在地方官の虐政に苦み、政府を怨み、動もすれば民擾を発せんとする折柄なれば、全忠両道乱党の勢力如何に因ては彼等起て之に応ずるも難計、左候時は京城は全く孤立の姿に陥り可申と被存候。
抑も当京城には新式(洋式)常備兵5,000と称すれども、其実数は是より減少すべく、而して此等の兵卒は平生歩趨運動の訓練に止り、護国の精神に至ては尋常市民に異ならず。
加之之を指揮する大小の隊長は大抵門地ある人々なれば、唯其員に備はるのみにて、平生の調練と雖も総て下士に任じ、彼等自身に兵隊を指揮する例に無之由に候。
斯る有様なれば、嚮きに派遣せられたる壮衛営の兵丁は各営中精練と称せらるるにも拘らず、彼地に至るや逃亡者日々不絶。
之が為めに士気沮喪し、進んで乱民の鋭鋒に当ること能はず、終に再び新兵を派遣する詮議に至りたるものと被推察候。
故に、官民勝敗の境は新送兵到着の後に定まる事なれば、今後3、4週日内には略相決し可申、万一不幸にして官軍敗続し民軍勝に乗じて北上する如きことあらば、当政府には如何に処置するか、予め之を今日に研究するは頗る必要と被考候。
鄙考には

第一策 政府は、民願を容れ民望に応ぜんとの目的を以て咄嗟に内政の改革を行ひ、国民が最も悪む所の弊害を除去し、以て乱党を懐柔し徐々に鎮定の方法を執ること。

第二策 兵を支那に借り以て乱党を勘定すること。
第一策は諸大臣中2、3の人是議を持するも公言を憚り、上奏中陰に之を言ふものの如く、第二策は閔泳駿主として之を唱ふるも異議多く未だ行れざるやに致漏聞候。
要するに、第一策は目下権勢共に盛なる閔氏に不利益なれば、国王の英断と雖も容易に行はるべしと思はれず。
之を行はんとするに、閔氏を振離して之を政府外に逐出さざる限りは其目的を達し難かるべく、而して斯る大事業は韓廷諸臣の微力にて成功し能ふべしと思はれざれば、今後乱民の勢力益々相募りたる暁には、是非なく第二策の姑息手段を執るに立至り可申と被推察候。
扨、支那兵が万一入韓(公然通知の手続を践み)するに至らば、朝鮮将来の形勢に向て或は変化を来すも難計に付、我に於ても差当り我官民保護の為め又日清両国の権衡を保つが為め、民乱鎮定清兵引揚迄公使館護衛の名義に依り旧約に照し出兵可相成や、又は清兵入韓候とも我政府は別に派兵の御沙汰に及ばれざるや、右は大早計に似たりと雖も予て御詮議相成候様致度候。
尚又前陳の如く当国の形勢に異変を来したる場合に当り、拙官の心得べき要項は兼て御訓示相成候様致度候。
右全忠両道の民乱に付鄙見及上陳候也。
全羅道と忠清道で乱民が蜂起して、官吏を追い払ったり城邑を落としたり、その勢いが猖獗を極めてるってのはこれまでの報告で分かってると思うけど、今日までの報告で乱民が占拠したり横行したりしてるとこは、全羅道では古阜、泰仁、扶安、金溝、井邑、高敞、茂長、羅州、咸平、務安、霊光等。
忠清道では懐徳、鎮岑、青山、報恩、沃川、文義等。
これは、全羅道・忠清道の3分の1に跨ってるわけで、この国にとっては大変な変乱だ、と。

まぁ、この辺は以前の連載の時に見た流れと同じ。
つうか、穀倉地帯のそんだけの範囲に広がってたら、朝鮮だけじゃなくどの国でも大変な事態ですが。(笑)

で、更に近年はその他の各道でも地方官の虐政に苦しみ、政府を怨み、ややもすれば民擾が起きようとしてる時期わけで、全羅道・忠清道の乱党の勢力次第では、彼等も呼応して蜂起するかもしれず、そうなれば京城は全く孤立する。
京城には新式兵が5,000人居るっていうけど、実数はそれより少ないし、兵も普段は歩趨運動しかしてないし、国を守る精神については普通の市民と同じ。
しかも、兵を指揮する大隊長・小隊長は大抵家柄の良い人なんで、単に名前だけで、普段の訓練も全部下士官に任せきりで、彼等自身が兵隊を指揮した事がない、と。
この辺は故事なんかでも割と良く聞く話で。

まぁ、そういう状態なんで、この前派遣された壮衛営の兵は精鋭と言われてたけど、全羅道・忠清道に到着するや毎日逃亡者が絶えず、そのために士気も無くなり、進んで乱民に当たる事もできず、遂に追加派兵の詮議に至ったものと推察する。
ってことで、官が勝つか民が勝つかは、新たに送られた兵の到着すれば分かるんで、今後3~4週間以内には大体決まるだろうけど、もし官軍が負けて民軍が北上するようになれば、朝鮮政府がどのような処置に出るか、予め今のうちに研究する事が必要だと思う、と。

で、朝鮮政府が採るだろう策について、第1に朝鮮政府は民の願いを聞いて望みに答えようという事で直ぐに内政改革を行い、国民が最も憎んでいる弊害を除去し、それで乱党を懐柔して徐々に鎮定する。
第2に清国から兵を借りて乱党を鎮圧する。
この2策だろう、と。

で、第1策は諸大臣中2~3人が考えてはいるようだけど公言を憚り、上奏中に暗にこれを言っているようで、第2策は閔泳駿が主に唱えてるけど、異議が多くて行われてないと漏れ聞こえてる、と。
この辺、一昨年の12月27日のエントリーの1894年(明治27年)5月22日付『発第61号』での5月18日の会議の話を元にしてると思われ。

で、第1策は現在権勢を振るっている閔氏にとって不利益なので、高宗の英断があっても簡単には行われるとは思えず。
もしやろうとすれば、閔氏を排除しなきゃ目的は達成できないだろうし、そんな大事業は朝鮮諸臣の微力では成功できないと思われるんで、今後乱民の勢力が益々拡大すれば、仕方なくその場凌ぎの第2策を執らざるを得なくなるだろう、と。
いや、朝鮮っていつもその場凌ぎなんですがね。(笑)

ってことで、清国兵が万一正式な手続き踏んで入韓すれば、朝鮮の将来の形成について変化をもたらすかもしれないため、日本側でも差し当たって官民保護のため、或いは日清両国の勢力均衡を保つため、乱民が鎮定されて清国兵が引きあげるまで、公使館護衛の名目で済物浦条約に基づいて出兵するべきか、または清国兵が入韓しても日本政府は特に派兵しないか。
これは、先走りすぎに見えるかも知れないけど、予め協議しておきたい。
また、前述のように朝鮮の形勢に異変が起きた場合の心得は、前もって訓示してもらいたい、と。

僕の予想、大体当たってたようで。(笑)


今日はここまで。
そろそろ、東学党の乱の続き始めようかなぁ・・・。



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