んー、まだまだ続くんだよね、「東学党の擾乱に関する日記」。
飽きてきたんだけど。(笑)

ってことで、愚痴りながらも1894年(明治27年)5月30日付『京第29号』の別紙、「東学党の擾乱に関する日記」の続きを見ていきましょう。

22日、一昨朝通過せし民軍の一部帰去するを見る。
此日民軍に不利益なる風説起れり。
嗟今少しく健全なる首領あらば、最早進んで為すところあるべきに、荏莆躊蹰、民心漸く弛懈するにあらざるか。
然れども、若し一郡の総代として京に出るか、或は全営に出で正面より為すところあらんとするときは、人命を芥の如く思視する此国の習として、其理非の如何を察するに遑あらずして、刎首することは勿かるべきか。
之れ第一の恐れなり。
如かず全軍を帥ひて先づ監営に至り、監司若し為めに力を費やさざるときは、進んで密に出で、須らく大闕の下に伏し、大に稟議し、兵力を以て我に加ふるときは潔く決戦して死すべきのみ。
若し此に至るの気慨なくして事を起すも無益なり。
右等の事情に因り、彼徒は利益完全に目的を達すること能はざるを憂ひ、是より只だ解散の運に接するならんを期し、其後は此事実を記するを懶とし、別に着目することもなかりしが、筆を擱くこと既に30余日冷灰復た将さに燃んとするものあるを見るに至れり。
1894年(明治27年)2月28日に、前回茁浦を通過していった民軍の一部が、帰ってきたのを見た、と。

で、この日、民軍に不利益な風説が起こった。
いや、接続詞とか前置きとか何も無いから、話飛びすぎに見えるんですけど・・・。(笑)
つうか、この辺解釈すんの難しぃ。

んーと、少しでも健全な首領が居れば、もうここまで来たらすること決まってるだろうに、為す術無く躊躇していれば、民心もだんだん弛んでしまうのではないか、かな?
かといって、もし一郡の代表として京城に行くか、又は全州監営に行って正面から非理を明らかにしようとすれば、人命を芥のように思っているこの国の常として、その言ってることが正しいかどうか検討することもなく首を刎ねられるのではないかというのが、第一の恐れだ、と。
んー、解釈に自信無ぇ・・・。(笑)

そうではなく、全軍を率いてまず監営に行き、監司がもし力で対処しないのであれば話し合い、兵力で民軍を押さえつけようとするなら、潔く決戦して死ぬだけで、もしその覚悟がなければ事を起こしても無益だろ、と。
この部分は恐らく日記の著者の意見なんでしょうが、言ってる事は過激にしても、まぁそういう事ですわな。

こういった事情から、彼等は完全に目的を達する事が出来ないのではないかと憂い、これからただ解散の運命にあるだろうと思い、その後はこの事実を書くのが面倒くさくなり、特に着目もしていなかったんだけど、書くのを中止してから30日ちょっとして、冷たくなった灰が再び燃え上がろうとしているのを見た、と。

まぁ、そのまま冷たくなっちゃえば、当然東学党の乱なんぞ起こらないわけで。(笑)
では、続き。

爾後の状況によれば、民軍は互に交代して人員に減少を見ざるのみならず、竹槍を執て三々五々相往来するもの絶ゆることなし。
此等のものに就て聞くに、一度び陣営に入れば殆んど人生別境の如く、家に帰りて耜鍬を手にするを物憂く思れて、省家の念殆んど絶ゆるものありと云へり。
又事の起りしより已に2ケ月。
人員も亦た多数の事なれば、彼れ設営の近傍は自然物売り商佑の集合する処となり、飲食店より雑貨店の類俄かに市を作し、甚だ盛んなる景状なりと云ふ。
大凡そ此の如くなれば、日々牛馬を侶とし、隴畝に歳月を送り、嘗て楽事に慣れざる土民の常として、日月を忘れて野営に嬉遊するも亦怪むに足らざるなり。
以後の状況によれば、民軍は互いに交代して人員が減るどころか、竹槍を持ってちらほらと往来する者が絶えた事がない、と。
で、これらの者について聞くと、一度陣営に入ればほとんど人生が変わったかのように、家に帰って鋤や鍬を手にすることが何となくだるくて億劫になり、家に帰るような考えはほとんど無くなった者も居るという、かな?

古阜民乱が起きてから2ヶ月。
民軍側の人員も多数であり、彼等の設営した陣の近くには自然と物売り等商人の集合し始め、飲食店から雑貨屋まで俄に市を作り、甚だ盛んな有様だという、と。
まぁ、人の集まるところには、商人も集まりますわね。

大体こういう状況なので、毎日牛馬と共に畝や畦で歳月を送り、かつて楽な状態に馴れていない地方民の常として、月日を忘れて陣営で遊んでるのもしょうがないよねぇ、と。
いや、ちょっとは後先考えてさぁ・・・。(笑)

就中未だ久からずして瓦解の運に至らんと思ひし局外者をして案外ならしめたるは、首領の巧慧なる手段を運らしたるにあり。
即ち首領とは、全明叔、鄭益瑞と金某の3人なり。
明叔其上位に居り、2人之を佐くるものの如し。
3人が平生を聞くに、屑々として産を治めず。
明叔は現に東学党の1人にして、同党中にても稍声望あるものなり。
又他の2人は土地の士分にして、鄭は文事あり。
3人共に壮少より親友にして、事を起すの始めより大小の事皆此3個の手中に属す。
然れども、彼等は責任を自身のみに限らしめず、各村の洞長・執網等をして悉く同様の責任を負はしめたり。
故に一朝事破るに方ては、18区面の洞長・執網は即ち同様の責を負ふを以て、百姓等も迂闊に退散し、或は嫌厭を生ずる訳に至らずして、団結も一層堅固なる趣なり。
民軍を、そう遠くないうちに瓦解すんだろうなぁ、と思っていた部外者にとって意外だったのは首領の手腕であり、その首領とは全明叔と鄭益瑞と金某の3人で、全明叔がトップで他の2人が補佐しているようだ、と。
3人の普段を見れば、せわしなく働いても生計をたてることができないでいる、かな?
それとも、財産を蓄えなかった、の意味かな?
いずれにしても、裕福な生活ではなかったようで。

で、全明叔は東学党の1人であり、東学党の中での声望もややある、と。
他の2人は土地の士分であり、鄭益瑞は文事あり。
んー、ここでの文事は、学問の素養の事かな?
それとも、科挙試験なりの何かの資格の話か?
これも良く分からんなぁ・・・。
今回分からない事だらけだな。(笑)

3人とも少年時代からの親友で、古阜民乱の最初から全ての事がこの3人によって決められた、と。
しかし、彼等は責任を自分達だけではなく、各村の洞長や執網等にも同様の責任を負わせた・・・。
従って、18の区や面の洞長や執網が同罪になるため、百姓達も迂闊に退散したり嫌がったりするわけにもいかず、団結も一層堅固になったみたいだ、と。
いや、事件起こしたのお前等だし。(笑)
まぁ、賛成したかどうかってのはあるかも知れないけど、それにしたって首謀者と同様の責任ってなぁ・・・。

と、ここで「執網」が気になってます。
俗に、全州和約後に農民軍側の監視機関である「執綱所」が各郡に置かれたなんて言うわけですが、その絡み。
全州和約自体は当時の記録も無く、私はその存在が極めて疑わしいものだと思ってるわけですが、「執綱」というのはどうやら実際にあったらしい。

で、今テキスト化している日記の「執網」と、「執綱所」の「執綱」について、単純に字の誤りであって同一の役職・機関を指し、その役割が、東学党の乱以前から一定或いは東学党の乱によって肥大化や変質したのではないか、というのは、存在しても良い疑問だと思ったりするわけです。

って、余談が過ぎましたね。


今日はここまで。



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