興味深いというか面白い内容ばかりで、ネタにするには丁度良い「東学党の擾乱に関する日記」。
でも、どこまで信用できるのかは甚だ疑問。
こういう史料って、紹介しない方が混乱無くて良いのかなぁ・・・。(笑)

ってことを考えながら、兎に角1894年(明治27年)5月30日付『京第29号』の別紙、「東学党の擾乱に関する日記」を読み進めていきましょう。

10日鷄鳴を待て、東津江頭に勢揃ひをなしたる民軍は、何れも白木綿を以て頭部を纏ひ、長さ五尺有余の竹槍を携へり。
最初集りたるものは凡そ500人計りなりし。
而して、首領以下皆徒歩せり。
城府の関門難なく通過し、朝堂と称する郡守の事務を執る所の前面に出たり。
寝所を冒し、進んで内部の諸衙を突き、捜索周密。
而して夜来未だ明けず。
竪子已に逸れ、追に方角なし。
先づ京路を追蹤す及ばず、午時反対の方角井邑の辺に遁れたるを知れり。
首領(7名中重なるものは全某他は未だ詳ならず)先づ朝堂に入り使を発し、吏部其他重なる悪政の助力人を喚ぶ。
来らざるものは捉捕す。
陣営整肅号令明晰他の席旗軍に似ずと云ふ。
先づ悪政の始末を厳重に取調ぶる為め、毎日拘留の面々を鞠問す。
陣営は府の内外にあり、皆幔幕を連ね夜は篝火を焚き糧は敵に依る。
彼の堰堤の報酬として取溜め居たる籾1,400余石は、劈頭に彼等の用に供ぜられたり。
前回は古阜民乱の発端というか、郡守側メインを見ましたが、今回のは乱民側メインでの視点ってことになるのかな?
1894年(明治27年)2月15日に鶏が鳴くのを待って、東津江に勢揃いした民軍は、皆白い木綿の頭巾を被り、5尺ちょっとの竹槍装備で、約500人が集合。

首領を含めて徒歩で古阜の関門を普通に通過し、朝堂という郡守が事務を行う場所の前に行く。
郡守の寝所を襲い、さらに進んで内部の各役所に突撃して、隅々まで注意して捜索。
まだ夜明け前、郡守は既に逃げどちらに行ったか不明。
まず京路を追跡してみたが見つからず、後で反対方向の井邑辺りへ逃げたのを知った、と。

で、全明叔以外は詳細不明な7人の首領は、まず朝堂に入って使者を出し、吏部ほかの趙秉甲に加担した主な者を呼び出し、来ない者は捕まえる。
民軍は粛然として号令もハッキリとしており、その辺の百姓一揆の軍とは違うという、と。

まず、悪政の顛末を厳重に取り調べるため、毎日拘留した者達に罪を問いただす。
陣営は古阜の内外にあって皆幕を張ってならべ、夜はかがり火を焚いて、食料は敵の物を得る。
で、趙秉甲が堰堤の報酬としてせしめた籾1,400余石は、最初に彼等のものになった、と。
つうか、随分散漫で飛び飛びな文章だなぁ・・・。
書きづらくてしょうがない。

んじゃ、続き。

11日、12日、13日、14日、加盟する村落十有五個。
全軍1万余人。
先づ壮丁を抜き老少は帰へし、之を統ぶるもの毎村5名。
隣郡到処同情を表し概して悪評を加ふるものなし。
然れども、亦進んで之に合し、自己が頭上の悪政を払はんと欲するものなし。
1894年(明治27年)2月16日~19日の4日間で民軍に参加した村落は15。
人数は1万人あまりとなった、と。
その中から、若い者だけを選抜して若すぎたり年を取りすぎた者は帰し、これを統率する者は各村ごとに5名。
で、近隣の郡でも至る所で同情を表し、悪く言うものはいない。

しかしながら、進んで民軍に参加し、自分の頭上の悪政を払おうとする者も居なかったってことは、この15村落は、この時点では古阜郡下の村落ってことだろうね。
最初は、本当に古阜郡だけの民乱で収まってたんだなぁ・・・。

15日趙丙甲全州監営に投ず。
是より先、彼れは単身逸走し、郡下の名望者前府使鄭某の家に潜み哀を乞ひ、鄭の為めに変装し、井邑の方面へ逃れ、辛ふじて監営に投ぜしなり(古阜を距ること我13里)。
之に因て鄭は禍を買ひ、目下囹圄にあり。
丙甲、監営に到り先づ監司に謂て曰く、奸徒席旗を掲げ、竹槍を執りて府門を襲ひ、郡下の属吏皆な其窘む所となり、今や禍ひ予が身に及ばんとす。
纔かに免れて爰に投ず。
願くば兵1,000を借せ。
直に馳せ下りて之を鎮めんと。
監司聞かず。
書を臺閣に飛ばし、以て指揮を待つと。
丙甲竄れて営門に在り。
而して席旗軍此後如何。
一方、趙秉甲はまず単身で走って逃げ、古阜郡下の名望者である前府使の鄭某の家に逃げ込んで哀れみを乞い、鄭のおかげで変装して井邑方面へ逃れることができ、辛うじて1894年(明治27年)2月20日、古阜から13里離れた全州監営に逃げ込んだんですね。
ってことで、このために鄭は現在牢獄暮らし、と。
可哀想に。(笑)

で、全州監営に逃げ込んだ趙秉甲は、全羅道監司に「奸徒がむしろ旗を掲げて竹槍を執り、府門を襲って郡吏等がみんな辛苦に遭い、自分にもその災いが及ぼうとしたため、かろうじて逃れてきた。願わくば兵1,000を貸せ。直ぐにとって返して鎮圧するから。」と述べるんですね。
ところが、監司はこれを聞き入れない。
この時の全羅監司は、金文鉉だったかな?

監司は、まずは朝鮮政府に書を送って、その後指揮を待つ事にしたんですね。
次の「竄れて」は、潜り込んで隠れる、かな?
趙秉甲は営門に潜り込んで隠れている、と。
それから、席旗軍はその後どうなったか。
んー、やっぱり日記と銘打ってるくせして講談口調で、気に入らないなぁ。(笑)

17日、民軍馬首駅に集まる。
首領以下大に議する所あり。
軍機秘密得て聞くべからず。
此日更に23の精鋭を抜く。

20日朝、彼徒余の滞在する茁浦を過ぐるもの3~40人。
各竹槍を携ふ。
聞く彼等は隔江の地に在る古阜農民にして、之より本営に集るものなりと云ふ。
此日完営(即ち全羅道監営)より判官閔某監司の命を承て下り、茂長縣監亦同命に依て来るとの風説あり。
民軍の成敗、惟ふに此一両日の運動如何に由て決すべし。
若し此際に於て、判官縣監等の処置意に満たざるものあるときは、益々彼等をして其気焔を熾んならしむるに至るべし。
1894年(明治27年)2月22日、民軍が馬首駅に集まって、首領以下で大いに相談していたようだが、軍機のため内容不明、と。
で、この日さらに23の精鋭を抜くってあるんですが、こりゃどういう意味だろ?
んー、分からん。
つうか、日本人の日記の方が、朝鮮漢文より解釈難しかったりして・・・。

1894年(明治27年)2月26日の朝、民軍参加者3~40名がこの日記の筆者の滞在する茁浦を通過。
みな竹槍持参。
聞くところに拠れば、彼等は隔江の地にいる古阜農民で、これから本営に集まるそうだ、と。

この日、全羅道監営から判官閔某が監司の命令を受け、また茂長の県監も同じ命令を受けて来るという風説があった。
民軍の成功・失敗は、思うにこの一両日中の運動によって決まるだろう、と。
もし、事此処にいたって、判官や県監等の処置が民軍の思いを満たさなければ、ますます民軍の勢力を拡大させる結果になるだろうというのが、この日記を書いた人の予想。

つうか、全羅監司からの電文はこれまで沢山見てきたけど、そういえば朝鮮政府側がどのような指令を出しているかは、全く分かんなかったよなぁ。
さっき、全羅監司が朝鮮政府に書を送った返答は、どういうものだったんだろうねぇ・・・。


ってところで、今日はここまで。



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