そろそろさぁ、杉村も翻訳してから文書綴ってくんねぇかなぁ・・・。(笑)
読むの面倒臭くてかなわんよ。

ってことで、今回も朝鮮側の電報等による史料。
1894年(明治27年)5月29日付『発第126号(釜山領事)、発第127号(元山領事)、発第70号(外務大臣)、発第16号(北京公使)』より。

1)昨夜入手探報に依れば、
数日政府姑無電報之来蓋東徒入咸平作鬧後無別事也洪啓薫率兵進霊光而彼輩先機避去無交伏也且朝廷之素務要安輯待其動静行討故也

2)陰四月十九日附招討使状聞(我五月二十九日)
竊伏念乱有兵乱民乱学有正学曲学安集之方備禦之策料不出朝家之得其宜也目今東学猖獗賊竊於両南無頼称托而蟻附操守畏謫而虎視大者萬計小者千数初因守令貪墨生霊塗炭則学無足爲乱實爲憂矣自有公麾防禦之軍而道帥之臣何至坐視致此滋蔓悔無可及而去年帰化者今日復起此非但我朝之遠慮亦爲隣国之羞恥也昨今両軍遠與王師民疲於迎送兵困於往來不可勝言也
聖度天大不以深罪更遣臣招討継
綸音則恩威併施而一向放肆若将以逸待労此所謂削之反不削亦反芟刈後已也東逐西走萬無剿滅之道臣之罪多矣復命之日自縛待罪以順王法然而見今事勢我小彼多雖以分兵推撃伏乞請借明兵以助之則使彼徒不接其首尾不通其音耗則彼必勢分而必散力窮而自解矣一挙萬全只此一條然恐未処分之若何
28日に入手した情報では、政府は数日間電報を受けていない。
恐らく、東学の徒が咸平に入って騒がした後、特別な事が無いのではないか、と。
洪啓薫が兵を率いて霊光に向かい、東学の徒が気付いて避け、伏兵も無かった。
且つ、朝廷では元々鎮撫策を施しその動静を待ってから討伐しようとしているからだ、かな?
んー、つまらん。(笑)

2つ目は、5月29日付の招討使からの状聞。
ダラダラと修辞表現が書いていますが、要するに援兵要請と単純に考えた方が良い気がします。

まぁ、直接対決を避ける東学軍を捕捉するだけでも、500人ぽっちの招討軍じゃ足りないでしょうからなぁ。
つうか、昨年の12月28日のエントリーなんかでの江華兵を中心とした援軍とか、先に鎮撫策を示せっつう話なんかは何処にいったんだ、と。(笑)

さて。
官軍と東学軍の緊迫が高まる中、あまり関係ない釜山から、結構面白い報告がもたらされます。
釜山領事室田義文から杉村臨時代理公使への、1894年(明治27年)5月30日付『京第29号』より。

全羅道地方旅行の我国人某より、当港居留の某に達せし東学党の擾乱に関する日記を得候に付、別紙寫一冊為御参考差進候也。
こういう出所の怪しい文書は、眉につば付けて見ていきましょう。(笑)
ま、本当に参考までってことで。

東学党騷擾は、元来古阜郡の民乱より引続き起りたるものにして、今日より見るときは、恰も古阜の民乱は東学党より引受けたる姿となり居れり。
此日記は、正月10日の府庁襲撃より始まり、爾来黄土山の激戦迄4ケ月間の出来事を、其騷擾の中心点古阜郡を去る2里許の地にありて見聞せしままを記せしものなり。
民軍の首領全明叔は真乎東学党鏗錚の丈夫にして、黄土山の戦略は多く明叔の指図に出づと云ふ。
目下、京軍の逆賊として嫉視するものは唯全明叔一人にして、自余は彼が煽動に拠りて烏合せるものと思量せり。
宜しく古阜の民擾をして、東学党騷擾と別物視するなくんば幸甚。

陰暦4月12日
於湖南莱湖 巴溪生報
今起きている東学党の乱は、元々古阜民乱から引き続き起きたもので、この日記は1894年(明治27年)2月4日の府庁襲撃から、黄土山の激戦までの4ヶ月間の出来事を、古阜郡から2里ほど離れた場所で見聞したまま書いたものだ、と。
ここでの黄土山ってのは、黄土峴の事でしょうね。
現代でも「黄土峴戦跡地」として、史蹟第295号に指定されているようです。

で、民軍の首領は全明叔。
黄土峴の戦闘でも、その戦略の多くは明叔が指示したものだ、と。
この「明叔」が、韓国の一部では全琫準の字とされているようです。
本当に同一人物かどうかは、これから分かるのかな?

招討軍が逆賊として嫉視しているのは全明叔ただ一人であり、他は全明叔の煽動で寄せ集まっただけだろうと考えている、と。
そんなわけで、古阜民乱を東学党の乱と別物と見ないでねってのが、1894年(明治27年)5月16日に書かれた前書き。
ちなみに、これを書いたとされる巴溪生が誰なのかは、全く不明。

それでは日記本文を見てみましょう。
長いよ。

甲午正月初10日払暁、一群の乱民古阜邑へ乱入し、突進して郡守が寝処を侵かす。
郡守倉皇塀を踰へて逃がる。
左右従ふものなし。
乱民隊を分け捜索すれども遂に得ず。
此際、官私の別なく1人の之を支ふるものなく、吏部以下の官属皆彼等の為めに捕拿せらる。
古阜は、沿海の地あらざるが故に、仁川・釜山在留我商業者には関係薄き土地の如くにして、其邑名さへ知了せる人稀なりと雖、其実金堤及萬頃等連続せる大平野にして、28村落より成り、土地肥沃にして農産に富み、茁浦・鹽所・東津・沙浦の4港より遠近各地に輸出する高少なからず(上納高1万8千余石、税庫は扶安・茁浦にあり)、貿易上枢要なる箇所の一なり。
郡守は彼の咸鏡道防穀令に因て有名なる趙氏の姪にして、姓は趙、名は丙甲なり。
此国内政紊乱の極、所謂憑公当私の事決して音となすに足らざるが如しと雖、其苛歛弊政の在る処、実に我国人の想像に堪ゆるべきことにあらず。
以下、趙丙甲失政の跡に就て一、二の所聞を記せん。
昨秋、此地方の豊作なりしに拘はらず、丙甲は防穀令を布き、親近の人をして盛んに米穀を買収せしめ、而して米価暴謄の際に於て之を放売し、忽ちにして巨額の利を得たり。
又税米取立に際しても非道の挙ありしを以て、昨年10月頃少しく民心の穏ならざることありし。
又、同年9、10月の頃、僧侶をして張礼を配付せしめ、報酬を己に収めたりとの噂ありし。
又或は、一河を堰き止め、名を潅漑に仮り、毎回多少の報酬を強徴せしことあり。
是れ民怨を買ひし、最重の原因なるが如し。
さて、まずは発端。
1894年(明治27年)2月15日の明け方。
一群の乱民が古阜邑へ乱入し、郡守の寝処に進入してきたため、郡守は1人ぼっちで逃げるんですね。
で、乱民は隊を分けて捜索したけども、遂に見つからなかった、と。
この時、公私の別なく1人も防ごうとする者は無く、吏部以下みんな拿捕されるというのが、大まかな流れ。

元々古阜は海に接しているわけでは無いため、仁川や釜山在留の日本人商業者には関係が薄い土地のようで、古阜の名前さえ知っている人が稀だけども、その実金堤や萬頃等に続く大平野で、28の村落からなり、土地は肥沃で農産に富み、近隣の4港から各地へ輸出する額は少なくなく、貿易上重要な場所の一つだ、と。

古阜郡守は、防穀令事件で有名な趙秉式の・・・・・・姪???
そもそも趙秉式の親戚筋なのか?という疑問は置いておいて、姪って・・・。(笑)
おまけに、趙秉甲が趙丙甲になってるし。
大丈夫か?(笑)

で、趙秉甲の失政を挙げる。
昨年は豊作であったのに、趙秉甲は防穀令を布告し、親近者に米穀を買収させて高値になったところで売り払い、巨額の利益を得た、と。
確か、趙秉式も豊作なのに防穀令布いたんだよなぁ。
やっぱ血筋か?(笑)
っていうか、防穀令事件以外にも普通にあちこちで防穀令とか出てたのかなぁ・・・。

続いて、税米の取り立てにも非道があって、1893年(明治26年)11月頃から民心不穏になった事があった、と。
また、1893年(明治26年)10~11月頃には、僧侶に張札を配布させ、報酬を自分のものにしたという噂があった。
つうか、張札って手本引きとかのアレじゃないよなぁ・・・。
で、ここでようやく河を堰き止めて、潅漑だと言って毎回多少の報酬を無理矢理徴収した事があるという、一番ポピュラーな民乱の原因の話が出てきます。
勿論、書いた人も知っているようで、これが民衆の怨みを買った最も重い原因だ、と。

う~ん。
ここまで見て、本当に参考にしかならんかもなぁと思ったり。(笑)


今日はここまで。



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