風邪なおんねーし。
ってことで、昨日はお休みしちゃいました。( ´H`)y-~~

おまけに相変わらず読解が難しい、朝鮮側の電報等による史料。
もうへこたれそうです・・・。

そんな落ち込み気分で、1894年(明治27年)5月27日付『発第67号』。

1)陰四月二十一日(我五月二十五日)全羅道監司電報
即見霊光十七日電報、則東徒数千名不知何処来向直入郡中沖火於軍器庫戸籍亦爲焼火破碎官門而当日還去不知何処又接務安所報則本縣三内面東徒七八十名半騎半歩身被甲胄各執長鎗大刀十八日留住一夜後向往羅州云

2)同二十二日(我二十六日)午後招討使電報(是は全州より入電の日附)
留陣於興徳以待賊兵推撃而銃丸流矢鉛丸即優送事

3)同日戍時招討使電報
行到咸平逢東徒数千将欲交戦則彼登山大呼曰此兵我主上奉命不来者異於貪官之兵決不抗敵而若争戦我等未免逆徒之罪云云京兵向東彼則西走京兵向西彼則東走勢難接戦伏悶々

4)同日全羅監司電報
東徒投書於南門前聞見則京兵不抗郷兵必破貪官逐送姦吏剿滅此乃生等輔国安民之本意也雖至百年決不退散云

数日前、当京城開業医の元へ出征京兵の負傷者1名施術を請はんとて来りたるものあり。
負傷者は、太腿を打抜かれたるものにして、最早一週日計りを経過せる為め、殆んど腐爛し居れりと云。
右負傷者を連れ来るに、20名計の兵之に附来し居れりとの説を伝聞せり。

5)甲午四月十九日東学党の擾乱に関し王勅あり其文如下(我五月二十三日)
伝曰天之生民欲其生而已雨露霜雪皆所以欲生之也王政之有刑辟其亦不得已焉去其凶害而黍庶乃得以安矣假使一夫悖戻一里爲之患則尚可以懲而戢之其欲不忍乎其一則亦将爲忍乎十百矣此所以有今番招討使之差遣也邇来民生之嗷々然不得安堵者亶由於近民之吏不克體豫如傷若保之至意残虐之政無所不至令民不得聊生是以有作鬧之弊而犯分于紀者種種有之其習雖極可駭其情亦所当念亦以法網矯其痼瘼斥黜其貪汚而董勵之自有朝家之処置惟彼乱類中乃以詭詐不経之説嗾騙雖雖無知嘯聚党与跳踉猖獗藉托號訴實懐叵測憑恃衆多専事攘奪至於勒劫官長残害郷里形迹之桀驁不可止以鬧民而論矣夫好生現悪死人之常情也其雖欲捨其安楽之業就其死亡之地甘觸罔赦之科而其困於剥割不能寧処逼於誘脅隨以胥動者予豈不知此予宵旿憂勒靡遑暇逸只是爲民一事而治不諼志澤未下究俾爾元々未免棲遑仳離乃至於此予實歉嘆而民庶之眩惑於譸幻自欲投身於教化之外者亦豈其常性也哉要不出乎愚廃没覚而然矣忍見赤子之入井而不汲汲然援而救之哉其令道臣守宰詳明暁諭以恩威之不可偏廃使各悔懊函歸土着各安其業非直曰以■従罔治也豫所以惻怛推仁先之以教也其蕩折無依者撫綏慰恤使得奠居無復追論於已改之轍務安頓咸與維新如是布告之後其即解去者袪其舊染復其本心者也其爲蠹爲害反可以利益於民者聴之民論参以邑報隨即商確便宜矯捄後據實登聞若其猶復抗拒群聚不退者此豈可以恒民待之亦有常法不可容貸矣一委招討使以法従事大抵民之休戚其不在於莅民之官乎苟能悉心盡職無擾於民使自甘其食楽其生則雖家説戸諭勧之使鬧其肯爲之哉列邑之治否按廉之黜陟藩臬之責而初不能弾壓馴而致此又不能拊循而調制亦未即覈實馳啓尋常度日安在其委寄方面之義哉全羅監司全文鉉姑先施以刊削之典湖南起鬧始由於古阜転至於此寧不痛歎宜有一番何覈前郡守趙秉甲令王府発遣都事具裕拿来按覈法意何等緊急而迄無査啓反滋致騷事體既墮僨誤亦多古阜按覈使李容泰施以竄配之典仍令道臣起鬧邑倅這々査覈論啓朝家亦当按其軽重函施当律用慰民心此意亦令宣未民人等事令廟堂措辞関飭

右及御報候也。
まずは、5月25日の全羅道監司からの電報。
5月21日の霊光の電報を見ると、どこから来たのか不明な東学の徒数千人が郡内に入り、武器庫や戸籍を焼き払い、官門を破壊した後どこかへ去っていった、と。
んー、1月3日のエントリー辺りでは、東学軍は5月20日には咸平方面に退いてる筈なんだけどなぁ。
どっから涌いてきたんだろう?

で、務安からの報告では、務安県の三内面にいる東学の徒7~80名のうち、半分は騎馬で、半分は徒歩で、甲冑を身につけ長鎗や大刀を携えて、5月22日に羅州へ向かった、と。

次は、同日の招討使洪啓薫からの電報。
興徳で陣を留め賊軍を待ち受けて撃とうと思うので、矢弾を送れ、と。
そのぐらい、ちゃんと持ってけよ、と。(笑)
3つ目も、同日の招討使洪啓薫からの電報。
咸平で東学の徒数千人と遭遇し交戦しようとすると、彼等は山に登って大声で「招討軍は王命を奉じて来た者で、貪官等の兵ではなく抵抗することは出来ない。もし戦いになれば、我々は逆賊の罪を免れる事が出来ない。」と叫んだ、と。
つうか、本当かよ?(笑)

ってことで、招討軍が東に行けば東学の徒は西に逃げ、招討軍が西に行けば東学の徒は東に逃げるので、戦いになんねー、と。

4番目も同日の全羅道監司からの電報。
東学の徒の南門前での投書によれば、「招討軍には抵抗せず、地方兵は必ず撃破し、貪官は放逐し姦吏は掃滅する。これは輔国安民の本意であり、例え100年経っても退かないだろう、と。
んー、果てしなく胡散臭いけど、どうやら本当らしい。(笑)

で、数日前京城の開業医の処に、出征した招討軍の負傷者1名が治療に来た。
負傷者は太腿を打ち抜かれており、受傷後約1週間を経過しているため殆ど腐ってる、と。
この負傷者を連れてくるのに、約20名の兵が付いてきたという話を聞いた。
んー、戦闘したのか、してないのか・・・。

最後は、東学党の乱に関して5月23日に高宗が出した勅。
長いので超要約すれば、貪官汚吏は何とかすっから生業に戻れ。
じゃなきゃ仕方ないから罰するよ、ぐらいかな?
こんだけ長い文章が、2行で要約出来てるのか不安だけど、多分間違ってないと思う。(笑)

朝鮮漢文による史料はまだまだ続きます。
続いては1894年(明治27年)5月29日付『発第118号(仁川)、第119号(京城)』より。

1)陰四月二十四日(我二十八日)未時招討使電報
留陣興徳既接咸平所報則乱徒聞京兵抵来向去長城云故進兵分逐於長城伏計

2)同日申時全羅道監司電報
既接咸平所報則東徒聞京兵不遠留住彼云決不欲與京兵対敵向去長城路而中間又有羅州路行向之処姑未詳知云

又別報に依れば、

一.東徒処被促転運委員金徳容被害云
 5月22日報告参看

一.招討使領京軍進討東徒于霊光霊光屯賊移屯于興徳招討使転進興徳彼徒又退屯稍々解散称以與王師不欲接戦云合而後散分而復合此討甚難処可悶云

一.転運等事従民願将罷云(25日報告参看)

一.古阜郡司趙秉甲将置死刑云(同上)

一.按覈使李容泰金堤郡竄配(同上)
まずは、5月28日の招討使からの電報。
興徳に陣を張り咸平の報告を見るに、乱徒等は招討軍が来る事を聞いて長城に去ったというので、兵を分けて進み長城で伏兵する計画だ、と。
おお。
何か招討使頑張ってる雰囲気。(笑)

次が、同じく28日の全羅道監司の電報。
咸平の報告によれば、東学の徒は招討軍が遠くないところに駐留していることを聞いて、決して招討軍とは敵対しないと言って長城に向かったが、中間には羅州に行く道もあり、まだ詳細が分からない、と。
んー、この辺の情報の遅さってのは、朝鮮軍或いは朝鮮政府のネックになってるかもねぇ・・・。

兎も角、一応また分かりやすいように地図を貼っておきます。
新しく出てきた地名は長城だけなので、以前のバージョンのままで。
ちなみに長城は、霊光の名前の直後くらいの場所、興徳と霊光と三角形になるような位置になります。

東学党の乱地図ver2
(クリックで拡大)



で、別報。
1つ目は、昨年の12月28日のエントリーで東学の徒に捕まった転運委員の金徳容の話。
結局殺されたようですな・・・。

2つ目は、これまでも見てきた招討軍と東学軍の話。
霊光に居る東学の徒を討伐しようと向かうと、東学の徒は霊光から興徳に移動し、招討軍が今度は興徳に向かうと、東学軍はまた退いて若干解散しながら、王の軍とは戦わないと言う。
合しては散らばり、散らばってはまた合するため、これを討伐するのは非常に難しい、と。

3つ目は、転運等の仕事は、民の願いで将来廃止予定、と。
この25日の報告参照ってのは、1月4日のエントリーの1894年(明治27年)5月25日付『発第66号』の中の話で良いのかな?

で、次が古阜郡守趙秉甲を死刑に処すと言う、と。
上と同じく、1月3日のエントリーの1894年(明治27年)5月25日付『発第66号』の中では、趙秉甲の捕縛命令だったわけですが、それを死刑に処す、と。

最後は、按覈使李容泰を金堤郡に竄配する、と。
これまた、1月4日のエントリーの1894年(明治27年)5月25日付『発第66号』の中の話ですね。

こうして、激突も無いまま鎮撫策が実施されていくんですなぁ。
ツマンネ。(´・ω・`) (笑)


長くなりましたが、今日はここまで。



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