さて、今日紹介する史料は、途中の大事なところで欠文があるんですが、ここまでの経緯やそれに対する杉村の批評を見ることができます。
杉村臨時代理公使から外務大臣陸奥宗光への1894年(明治27年)5月26日付『機密第66号』より。
長いので分割しながら。

全忠両道の民乱に関する報告・批評

全忠両道乱民の景況は、4、5日前より朝鮮政府は電報の漏洩を厳禁し、該地方より来到せる電信は暗号の儘緊封して之を政府に送り、且つ京城と該地方との間に於ける私報取扱は一切之を禁じたる趣にて、幾んど之を探知するの道なく、諸方に手を廻して漸く其一端を知得する次第に有之候。
要するに数日来の景況は、乱民勢を集め南下して霊光を陥れ、汽船漢陽号を攻撃して役員を捉出し、招討使は全州を出でて霊光に向ひ、乱民転じて咸平を陥れたる等は事実と被推考候。
但し、数日前京軍敗績の風説専ら有之候得共、今日迄未だ京軍接戦の確報に相接不申候。
尤も、或る慥なる報告には、開戦以来の官兵死亡者を数へて土兵300余名、京軍12名と称し、又一報には京軍負傷者多しと云へり。
左すれば、京軍の接戦を事実にあらざるかと被推測候。
将又、乱民処分に関する廟議は、一厳一寛定まらず、初めは京軍出征の虚威を以て乱徒を恐嚇し、風を望んで解散せしめんと予期したる処(此議は閔泳駿之を主張し、袁世凱陰に賛成したるものと推察せらる)、乱民の強硬なる事全く其予想に反したるが故、国王には更に諸大臣の議を容れ、貪婪の地方官を処罰し、以て乱民を招諭せしめられんとするものの如し。
この辺、ここ最近見てきた史料の通りですね。
まぁ、当たり前ですが。

電報の漏洩厳禁の話は、昨年の12月18日のエントリーで見られたわけですが、各地方からの電信は暗号のままで緊封して政府に送り、私信も一切厳禁となったため、その内容を知る術が無く、諸方に手をまわしてようやくその一端を知り得るような状態、と。
まぁ、それまでダダ漏れだったわけですし、さらに厳禁となった後ですら公文の報告もある程度入手できているわけで・・・。(笑)

んで、ここ数日の景況からは、乱民が霊光を陥落させ、漢陽号を攻撃して役員を捕らえ、招討軍がこれに応じて霊光に向かうと、察知した乱民側が今度は咸平に向かい陥落させたというのは、恐らく事実だろう。
ただ、数日前招討軍が敗北したという風説があるけども、現在のところ招討軍が戦闘を行った確報には接していない、と。
んー、確かに招討軍敗北の噂は、始めて聞きますな。

もっとも、ある確かな報告では開戦以来の官兵の死亡者は、地方兵が300人、招討軍12人となっており、また別の報告では招討軍の負傷者多数とされており、招討軍が戦闘したのは事実かもね、と。
死者数については、前回の壮衛営の文書に記載がありましたね。

で、乱民をどう処分するかについての廟議は、一方は厳しく、一方は寛大にということで決まらず、最初は招討軍が送られたという事実を以て乱民をビビらせて解散させようと思っていたのに、乱民が予想に反して強硬な態度だったので、高宗はさらに諸大臣の議論を容れて、地方官を処罰して乱民を説得しようとしているようだ、と。
まぁ、最初から根本的原因を取り除けよ、っつう話なんですがね。

近日の廟堂公議録なりとて得たるもの、左の如し。

東撓漸く滋漫事々測られず、誠に細慮にあらず。
況んや三南は国家の保障なるをや、人心煽動せば自然農を失はん。
此誠に危急措なきの事なり。
招討の兵は、或は幾千名を剿滅すと雖ども、数万名同心にて死生を共にするの衆なれば、猝に屠殺し難からん。
現今の事勢は、曉喩を加へ之をして帰化せしむるに如かざるなり。
或は此徒を指して烏合と謂ふも、然れども既に人生万名の集会に至れり。
且つ三南緊要の地農を失ふをや、大臣中一人自ら体察使の重任に当り、道伯郷監已下に向て先斬後啓(奏聞せずして斬罪を行ふを云ふ)の権を執り、而して貪官猾吏をば一併梟首して先づ弊政の大なる者を除き、然後以て暁喩を為さば、則乱民一朝にして退散せん。
伏して聖上の垂察を乞ふ。
閔泳駿独り曰く、貪官猾吏安くに在るや。
近来人心良からず、敗訟者は寃と称せり。
而して一邑の内、豈に敗訟者なからんや。
此輩徒党を嘯聚し、先づ百余人を挙げて来りて官廷に争ふ。
若し意の如くならざれば、則官長を辱しむ。
而して其甚しき者は境外に逐出せり。
是豈民習ならんや。
方今東徒と云ふ者は、皆乱民亡命者なり。
此輩、但暁喩して殺さずんば、此れ悪を養ふなり。
民を愛せんと欲すと雖ども、此等悖民は之を置くも何が国家に益あらんや。
外国の兵を借ると雖も剿滅して、然後国家無事ならん。
上曰く、此徒は忠孝を以て本と為すと云へり。
以て之を悖民乱習に帰す可からず。
廟議或は怪き事なかる可し。
閔泳駿曰く、彼徒の「忠孝を本と為す」との申触れば邪を飭るなり。
必ずしも信ぜられず。
若し治を固めんと欲せば、之を滅して可なり。
最近の廟議の内容として得たものとして、まず大勢は例え何千人殺そうが、数万名が同じ気持ちでいる以上殺し尽くすのは難しいんだから、説得して帰化させるのが一番良いっしょ?と。
で、更に大臣中の一人を体察使にして、地方官を奏聞せずに斬罪する権利を持たせ、貪官汚吏をさらし首にして弊政の大なる者を除き、その後説得すれば乱民は直ぐに解散するでしょうという、民に対して比較的穏和な政策論ですね。
何故、奏聞せずに斬罪する権利が必要かと言えば、当然次に一人だけ反対する人の息のかかった地方官を断罪するからでしょう。
奏聞してたら、当然邪魔してくるでしょうし。

ってことで、その閔泳駿は独りだけどこに貪官汚吏がいるのよ?と。
敗訟者が冤罪だと言って騒いでるだけだろ?
今東学の徒っていうのは、みんな乱民亡命者の類なんだから、これをただ説得して殺さなければ、悪を養ってるようなもんだから、外国の兵を借りてでも掃滅すべきだという強硬論なわけです。
閔泳駿的には、非を認めるわけにはいかないでしょうしねぇ。

これに対して高宗が、東学の徒は忠孝を以て本分としているそうだから、悖民乱習と決めつけちゃ駄目なんじゃない?と述べると、閔泳駿は更に、「忠孝を本と為す」なんて信じられっけぇ!
もし治世を固めたいなら、滅ぼしちまえ!と。
まぁ、割と高宗は、東学の徒のターゲットが自分ではなく、閔氏やその一派に向けられている事が分かってるのかも知れませんねぇ。

では続き。

右廟議の結果にや、去22日の朝報に外務協辨金鶴鎭氏更に全羅道監司に敍任の事を記載し、同時に前監司は免職の上罰俸。
古阜郡守趙秉甲は、貪虐の罪を以て京城へ押上、其他方伯守令の貪虐なるものは、一に其罪を論じて民心を定め、且つ急に王命を以て乱民を暁喩する事に詮議相成たる旨致伝聞候。
左れば、閔泳駿氏が始めより主張したる派兵剿滅の議行はれず、諸大臣の奏議終に採用相成りたるものと被推測候へ共、右様の姑息処分にて果して能く乱民の心を満足せしむ可きや否、目下疑問の中に有之候。
再昨日金嘉鎮氏来館談話中に、全羅道の乱民は本と地方官の虐政に堪へずして興りしものにて、深き希望を懐くものと思はれず。

 (中間欠文)

我政府は、別に派兵の御沙汰に及ばれざるや。
右は大早計に似たりと雖ども、予て御詮議相成り候様致度候。
尚又、前陳の如く当国の形勢に異変を来したる場合に当り、拙官の心得置き要項は兼て御訓示相成候様致度候。

右、全忠両道の民乱に付鄙見及上申候也。
ってことで、5月22日の官報で外務協弁の金鶴鎮が全羅道監司となり、前監司は免職の上罰俸。
古阜郡守趙秉甲は捕縛。
その他地方官の中で貪虐な者は、その罪を論じて民心安定に努め、王命によって説得する事に決定したそうだ、と。

つまり、廟議の結果大勢を占めていた穏和路線な方向で決まり、閔泳駿の強硬論は採用されなかったらしい。
尤も杉村は、こんな姑息な処分で果たして乱民が満足するか疑問、と。
姑息じゃない処分って何だろう?

で、金嘉鎮来館の談話で、元々全羅道の乱民は地方官の虐政に堪えられなくて起こったものであり、深く希望を懐いているわけではないだろう、と。
そこから先が欠文になって、唐突に日本政府は派兵するのか?と、杉村の照会になっちゃいます。
んー、欠文の部分、面白そうなんだけどなぁ。。。

んで、派兵の話は大早計だとは思うけど、前もって詮議しておきたいんだけど、と。
更に、朝鮮の形勢に異変を生じた場合の対処について、杉村の心得て置く要項も前もって訓示しといてね、と。
一応の方向性を示しておいてねっていう話でしょうなぁ。
んー、きな臭い香りがしてきましたねぇ。(笑)


ちょっと長くなりましたが、今日はここまで。



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