前回、1894年(明治27年)5月25日付『発第66号』の雑報で、ようやく官軍と東学軍が激突するのかと思っていたのに、先に趙秉甲の捕縛等の慰撫の意を示す事になり、激突先延ばしになったことに (´・ω・`) としているdreamtaleです。
どうも。

まぁ、そうは言っても、ようやくこの連載冒頭のアジア歴史資料センター『東学党変乱ノ際韓国保護ニ関スル日清交渉関係一件 第三巻/1 朝鮮東学派ノ起因並二内乱ノ事(レファレンスコード:B03030207400)』をなぞる部分が出てきたわけです。
ってことは、これから大敗するのかな?(笑)

それでは今日も、1894年(明治27年)5月25日付『発第66号』の雑報の続きから。

○ 転運司に対し攻撃の理由
沃溝之群山霊光之法聖東徒屯聚転運船一并攻逐転運将絶矣此擾根因非但起於民人諸邑吏胥疲於転運抵死罷転運而與民符同外内相應也
群山や霊光に駐屯している東学の徒が、転運船を攻撃して追い出したために、税穀の運搬は途絶えた。
んで、今回の騒ぎの根本的な原因は、ただ人民から起きたというだけではなく、諸邑の吏胥等も転運する事に疲れ、死にものぐるいで人民と一体になって内外呼応して起きたものだ、かな?

12月30日のエントリーでも疑問だったんだけど、転運ってどういうシステムだったんだろ?
そういえば、昨年の12月28日のエントリーで生け捕りにされた、金徳容他2名も転運局の人だよなぁ・・・。
どうなったんだ、あれ?

○ 招討使の営中より官軍死亡者の数を通信したるものに拠る
探視壮衛営隊中来書則前後土兵死者三百余名京軍死者十二名云
壮衛営からの文書によれば、地方兵の死者は300余人。
招討軍の死者は12名だ、と。
つうか、招討軍が戦ったって話まだ聞いてないんだけど、どこでそんな死者出してんの?(笑)

○ 招討使に関する批評
聞近日電報裏面所伝其大略則初無京軍接戦招討使按兵不動只以土兵為前駆外禦故土兵與京軍互相不平招討使恐有蕭墻之変也或有人説朝鮮用地閥人望而洪啓薫本無地閥且無人望今日兵卒雖以将令聴之内懐軽易之心而不服此大失計也云

最初、全羅道古阜に於ける民乱の起るや、政府は李容泰を按覈使として派遣せるに、同使病と称して発せず、遂に竄配の典に処せらる。

議政府草記承命按覈何等厳急而始因称病不即登程竟乃値鬧未免軽還覈事玩愒誰其執咎揆以事體不可無警古阜郡按覈使李容泰施以譴罷之典事伝曰允(陰四月十五日我五月十九日朝報)
電報裏面所って、何だ?
兎も角、最近そこに伝わっているのは、大略として招討軍は端から戦う気がなく、招討使洪啓薫は自分の兵を動かさず、ただ地方兵を先に立たせて外を防禦したため、地方兵と招討軍は相互に不平を言い始める。
そのために洪啓薫は、自分の陣営で変乱が起きるのではないかとビビるんですね。

ある人が言うには、朝鮮では地閥や人望のある者を用いるのに、洪啓薫には地閥も人望も無いので、表向きは命令を聞いても、裏では馬鹿にして従わない、と。
これが大失計だと言うわけですが・・・なんだかなぁ・・・。

で、最初全羅道で古阜民乱が起きると、政府は李容泰を按覈使として派遣しようとしたのに、彼は病気と言って出発せず、結局竄配の典に処せられたと言うんですが、「竄配の典」って何だろ?

議政府は非常に重要で緊急事案だったのに最初から病気を言い訳にして出発せず、結局このような事態を招いたんだから、古阜郡按覈使の李容泰を譴罷しろ、かな?

○ 続報に拠れば
古阜郡按覈使李容泰因政府草記罷黜後施以竄配之典
ってことで、続報でも上の招討使に関する批評中の話と同様の話が。

責任の擦り合いっつうか、何つうか・・・。

さて、もう随分長くなってきましたが、今日はもうちょっと頑張って進んで、雑報についても終わらせちゃいたいと思います。
○ 霊光擾乱の景況
霊光郡守載法聖倉穀與軍器於船浮在海上東徒焼破政堂與公庁而據之倉穀軍器見奪之説訛伝耳新官不得赴任向全州留完営(全羅監司署)云。

去る16日(我20日)朝報に拠れば、前霊光郡守閔泳壽は同副承旨に転任せり。
然るに前来の報告に拠れば、各地逃亡の地方官は厳罰すべきの含ありしにも拘はらず、同郡司亦逃亡の一人にありながら却て近親の官職に予へられたるは怪むべし。
蓋し夫れ閔を以て姓と為すものにして、始めて此恩沢に浴する者なる乎。
霊光郡守は、法聖の倉庫の穀物や兵器を船に載せて海上に逃げ、東学の徒は官庁等を焼いて占拠しており、倉庫の穀物や兵器が奪われたとする話は嘘だ、と。
で、新任の郡守は赴任することが出来ずに、全州の完営に留まっているってのは、前にも話ありましたねぇ。

5月20日朝の報告によれば、その海上に逃げた霊光郡守閔泳壽は、霊光郡の副承旨に転任した、と。
今までの報告では、各地で逃亡した地方官は厳罰に処すべき筈だったのに、閔泳壽もまた逃亡した一人でありながら、かえって近い官職を与えられたのは変だろ?という、尤もな疑問。(笑)
んで、閔姓の者だからだろうねぇ、と自己解決。
まぁ、恐らくそのとおりなんでしょうねぇ。

んで、次で1894年(明治27年)5月25日付『発第66号』は最後。

○ 東学党の情形
青山(忠清道)之徒移文於茂長曰今見黄平回書五晦(五月晦日頃)接應云而飛書於東南諸部矣懐徳第三隊頭領朴所使状路軍被捉於青営捕校所飭持文憑没数且奪憤歎奈何自今以後益加申飭於各部更勿疏漏而且期日前雖有難處之事忍憤息怒切勿忘動来指揮恐好云云
東徒仮装行客来往仁川済物浦而誘引転運司委員一人遂載船遠颺而去蓋東徒素有宿嫌於接運用故也然是於泰木仁川行此爲計是慮無不到也
東徒分三股一駐霊光一駐務安一駐咸平互相犄角聲援忠清道東徒亦成群而多有下去合勢于湖南(全羅道)

右及御報候也。
東学軍の連携に関する話ですね。
政府側の電報ですら読むの苦痛なのに、東学の話してる内容は更に意味が・・・。
兎も角、期日の前にむやみに動くなというのがメインな話のようです。
後は、転運司委員一人云々の話は、昨年の12月28日のエントリーの話絡みかな?
そうなら、仁川の委員金徳容を捕らえたという話だと思うんですが、全く自信無し。(笑)

で、東学の徒は部隊を3つに分け、1つは霊光に、1つは務安に、1つは咸平に駐屯、と。
忠清道の東学の徒も、湖南地方(全羅道)で合流しているみたいですね。

ということで、慰撫を試みるということで一旦水を差された形の招討軍と、準備が着々と整っている東学軍。
これからどうなっていくんでしょうかねぇ。


ってところで、今日はここまで。



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