今年は、今日から平常営業します。

ず~っと動きが無い上、高宗が「逃げよっか」って言う場面と、招討軍が飯も持たずに現地に向かった事以外は、特に面白くもない場面が続くという、実に飽きの来る連載でしたが、ようやく事態が動こうとしているようです。

前回の1894年(明治27年)5月25日付『発第66号』では、主に東学が霊光を占拠し、それに対していよいよ招討軍が動き出し、霊光の東学軍を挟撃する計画の話までを見ました。
ってことで、今日は実質昨年最後のエントリーにも係わらず、史料の途中でぶった切った前回の続きから。
今日は、6番目の5月22日の全羅道監司の電報からになります。

6)同日全羅監司電報
見霊光公兄(郡吏)文状該倅(郡守)以税米事初九日往運所彼類乗其空官十二日攔入城中本倅則尚未得還官
霊光郡吏の文状を見るに、霊光郡守が税米の事で5月13日に転運所に行った隙に、東学の徒が5月16日に城中に乱入し、霊光郡守は帰れないでいる、と。
この辺、前回の2つ目の電報と合致してますね。

さて、続いては忠清道監司の5月21日の電報。

7)同日又
霊光事匪類尚屯城中該倅不得還官無他措慮之入聞下諒
霊光では匪徒がまだ城内に駐屯しており、霊光郡守は戻ることが出来ず他の措置を執ることが出来ないので、ヨロシク、と。
しつこい。(笑)

次が、5月24日の招討使洪啓薫から左議政趙秉世に宛てた電報になります。

8)四月二十日左議政趙秉世に宛てたる招討使洪の電報(我五月二十四日)
十九日午抵井邑縣見霊光郡所報則彼徒聞京軍絡繹分進十六日辰時萬餘名退向咸平地去故明将留陣興徳以截後路指揮羅牧(羅州牧使)厳防要隘待沁兵下陸首尾攻撃伏計招討使洪
5月23日午後に井邑県に到着し霊光郡の報告を見るに、東学の徒は招討軍が分かれて進軍してくる話を聞き、5月20日に1万人余が咸平方面に退いたというので、明日は興徳に陣を張って後路をふさぎ、羅州牧使に指揮させて要隘を厳しく防がせ、沁兵が上陸したら挟撃予定、と。
んー、見取り図は書いて大体位置関係は把握してても、具体的な地形も分からんから、どういう作戦か分からないなぁ・・・。

続いて、5月24日の全羅監司の電報。

9)同日全羅監司電報
今見咸平所報十六日申時東徒六七千名自霊光直入本縣建旗校砲各執銃鎗騎馬者数百餘名或有被甲着戦笠或畏色巾刀舞衝突邑底直向東軒吏校奴令守城軍百餘名捍禦即破碎官門之際三班(吏奴令)被傷者過半餘皆散仍留陣於各庁粮米分排於饒当人公兄以不爲迎接供饋決棍逋吏姓名各文簿収来云云
今咸平からの報告を見れば、5月20日に東学の徒6~7,000人が霊光から咸平に入り、旗を立てて大砲を撃ち、銃や槍を持った騎馬の者は数百人になり、或いは鎧を着て戦笠を被り、或いは頭巾を被っている。
彼等は刀を振り回して突撃してきたため、吏校と奴令と守備軍100余名で阻止したものの、官門が壊される頃には吏奴令の半分が傷を負い、残りの半分は皆逃げ散った、と。
6~7,000名に100人ちょっとじゃ、防ぎきれませんわな。

んで、彼等は各庁舎に陣取り食料を分け与える一方、彼等を迎接して食事を供えなかったという理由で郡吏を棍棒で打ち、逋吏の姓名が書かれた名簿を持ってこさせたという、かな?
つうか、誰を迎接するんだよ・・・。

以上昨24日招討使并監司より達したる電報に拠れば、征討京軍の霊光郡に向って進軍したるを以て、東学党は退て咸平県を保たんと欲して、之を陥たるものの如し。
ってことで、これまで見てきた通り招討軍は霊光に向かい、それを見た東学軍は霊光から退き、咸平を陥落させたようだ、と。
そのまんまですがな。(笑)

さて、古阜民乱が端緒とされる東学党の乱ですが、その元凶である趙秉甲は、青瓦台前首席の曽祖父というニュース以外では最初の方にちょこっと出てきただけで、それ以降音沙汰無しでした。
ここでようやくその話が出てきます。

10)頃日来聞せる雑報左の如し。
○ 各大臣の合啓に拠り国王陛下の下教去22日入手。

一.伝曰古阜郡守趙秉甲倶格拿来南間囚
一.不可無綸音三県鈴持揮使之暁諭可也
 (三県鈴国家大臣の処至急伝令せしむる為に開く)
一.外地方伯守令貪虐者一一論罪以定民心可也
一.大臣以下至於末官当此板蕩之時何可垂手傍観乎特進安民輔国之策可也
一.全羅監司特施越俸之典可也
一.逃走之守令論軽重懲治可也
12月4日のエントリーに話のあった古阜郡守趙秉甲捕縛の話を始めとする、下教の内容を5月22日に入手したんですね。

一番最初は古阜郡守趙秉甲を捕まえてこい、と。
次は三県鈴が良く分からないんですが、要は指揮命令系統の変更って事かな?

それから、他の地方官も貪官汚吏や虐政をした者は、一々論罪して民心を安定させなさい。

次のは、12月24日のエントリーでの金弘集の「大臣以下文武百官の中で、どうして使うに価する人が居ないでしょうか。それぞれ一策を出させれば、必ず良い策があるでしょう。」何て言ったのと関係あるのかな?
大臣以下末端の官吏に至るまで、この時に当たって手をこまねいていないで、民を安心させ国を助けるような対策提出しなさい、と。

次も、これまた12月4日のエントリーで見られた罰俸の話ですね。
字面だけ見てると、罰俸には見えないですけど。(笑)

で、最後が逃げ出した守令は、その罪の軽重に応じて懲戒処分にしろ、と。

んー、実際に命令出されたのって、何時なんだろ?
12月4日のエントリーの『発第27号』も付日不明だったしなぁ・・・。

○ 全羅道出征軍人慰問の為め内帑金下賜の件
伝曰湖南出駐兵丁多日控露能解險難亦無艱食之歎乎挙挙中発遣宣伝官軍門特下内帑銭一萬両其令招討使量宜頒給
湖南に出兵した招討軍は、厳しい行軍をしながらも文句も言わずに頑張ってるから、特別に内帑銭として1万両挙げるから招討使は適当に分配してね、と。
本当にちゃんと分けられるのかは知りませんけど。(笑)

○ 政府は乱民を慰撫鎮定の為め左の如く訓令を発せり
東徒合勢於霊光故招討使始領京軍日前向霊光将欲大戦而綸音忽下交鋒前布示綸音罷黜完伯拿来前古阜倅趙秉甲以示慰撫之意而若不帰化則将以京軍討滅云云
東学の徒が霊光に集まり、招討軍が霊光に向かっていよいよ大戦になろうかという処で高宗の命令が出て、戦う前に全羅道の監司を罷黜し、前古阜郡守の趙秉甲も捕縛して慰撫の意を示したという綸旨を頒布し、それでも従わなかったら討滅しろ、と。

え~、激突なし~?
折角wktkしてたのにぃ~。(笑)


ちょっと (´・ω・`) となったところで、今日はこれまで。



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