んー、絶影島の話、面白くなるんだろうか?(笑)
自分で疑問を感じながら、今日もアジア歴史資料センターの『露国ノ韓国土地租借関係雑件/3.絶影島/1 明治30年8月18日から明治30年10月14日(レファレンスコード:B03041171700)』を読み進めてみたいと思います。

今日最初の史料は、1897年(明治30年)9月6日付『機密第31号』。

絶影嶌に於ける露国石炭置場借入に関する件

客月31日付機密第28号を以て及具報候絶影嶌露国石炭置場撰定の件に就ては、其後出張露国書記官取極を急ぎ、脅迫其他の手段を以て迫りしも、当港監理は之に応ぜず、且つ撰定地は当釜山港に於て必要の場所に付、炭庫敷地として貸与する能はざる旨を主張し京城へも屡ば往復之末、露国書記官も遂に当地に於て取極の要領を得ず、本日露国軍艦シユウイッチ号にて発程帰任致候。
尤も露国書記官は、最初撰定したる地所の外には更に撰定する処なく、飽くまで右地所を借入ん決心の趣にて、何れ京城にて朝鮮政府に迫まることならんと存じ候。
本件に就ては、当港監理は京城の訓令等をも示し何等の事も打明け内話致候に付、本官に於ても大に便宜を得て、必要の注意は時々監理に内話致置候。
又、今日に於ては露国撰定地の不可なるを監理も充分認め、公私信を以て京城へ意見申遣候趣なれば、此際朝鮮政府に於て動かざれば、露国は遂に他の地基を撰まざるを得ざるに至らんかと存じ候。
右露国撰定地の位置及面積略図、当港守備隊に於て竊かに調整したるもの有之候に付、右相添へ此段申進候。
敬具
おお。
結局ロシア書記官の強迫その他の手段に屈せず、ロシアの選んだ場所は釜山港に必要だから貸与できないと主張し、結局ロシア書記官もそのまま帰る他なかったって・・・。
なんか、中央政府より釜山監理の方が立派じゃないか。(笑)

しかし、ロシア書記官も最初に選定した場所に固執。
帰った後、中央政府に圧力をかけるだろう、と。
まぁ、そうだろうね。
っていうか、監理も前回言ってる他の場所にしてくれっていう話を、何故受けられないのかなぁ~♪

で、監理は伊集院に中央政府の訓令まで見せて相談し、伊集院は大いに便宜を得て、必要な注意は監理にちょくちょく与える、と。
また、監理はロシアの選んだ場所が不可である事を十分に認めて、中央へも意見してるので、朝鮮政府が動かなければロシアも他の場所にするしかないだろう、と。
まぁ、高宗自身が「何事も渾て之を排斥し不快の感を抱かしむるは、従来の関係に於て忍びざる所なり。」なんて言っちゃってる以上、無理だとは思いますが。(笑)

最後の、露国撰定地の位置及面積略図が、これ(↓)になります。

絶影島map (クリックで拡大)

んー、前回「先年総税務司ブラヲン氏が各国居留地に予定し置きたる地区に、多少掛り居るやに聞込み候」という話があったんですが、多少じゃねーし。(笑)
つうか、広いねぇ。
日本の海軍石炭庫が、この地図の右側の見えない部分にどれくらい広がってるのかは分からないけど、これを見た限りでは、石炭置き場にするという話を信用するのは、確かに無理っぽいですな。

さて、次の史料から、ようやく7月2日のエントリーの時期に入ります。
政府大臣の入替が行われたり、閔妃の国葬が延期してた頃ですね。
辨理公使加藤増雄から外務大臣大隈重信への、1897年(明治30年)9月24日付『機密第60号』。

絶影島借地に関する露公使の申込

去月18日頃、露公使より当国外部大臣に対し、絶影島に石炭庫用敷地借入の件照会有之由にて、右は先例に由り承諾する外なかるべしとの趣を以て、閔外部大臣より本官へ内々相談有之。
即其当時及電稟候処、同21日貴電第70号を以て、右は固より表面故障申入るべき筋に無之も、成るべくは朝鮮政府をして承諾せしめざる様、内密の手段を執るべき旨御来訓に接候。
然るに先是本官は、閔外部の内相談に対し強て先例に拘泥するに及ばずと雖も、事情止を得ざれば、同所は国力の発達と共に将来海防上枢要の地なるを以て、已に日本政府に貸与せる地区をすら、折もあらば撤回を求めたしとの希望を有する位なれば、這■の御相談には何分応じ難しと答へ、謝絶する方可然と勧告致置候得共、尚又御訓電に基き同23日、本官閔外部を訪ひ、露公使との交渉に関し其後の模様相尋候処、意外にも同官の答辞は、露公使去に臨み何事も総て之を排斥し不快の感を抱かしむるは、従来の関係に於て忍びざる所なりと、国王絶っての希望に出で、已に昨日承諾を為したれば今更致方無之。
唯だ此上は、時機見計ひ海防上必要との辞抦を以て、日露共に撤回を求むる外方法なかるべしとの事に有之。
事情已に如此なる上は、本件は最早同官との内談は無益なるのみならず、当時閔外部は已に全く露公使の為め籠絡せられ、何事も打明け相談難致景況有之に付、縦令事私交上に出づるにせよ、事情を打明し相談するは得策にあらざれば、寧ろ実地に就き、能ふ丈けの妨害運動を試むるに如かずと思料致候間、同25日英国総領事ジヨルダン氏を訪ひ、事情を打明け内々商議を試候処、同官も本官同様の意見に有之、且現に釜山税関長ハントは、英国「プロコンシユル」を兼任し居るを幸ひ、之に内訓を与へ、日本領事と協同以て妨害策を執らしむべしと相約したるに付、猶又本官は、其帰路総税務司ブラヲン氏を訪ひ、同氏より「ハント」に予め注意を与へしめんと欲し、内話致候処、同氏も之を承諾し、兎も角もジヨルダン氏と協議の上、相当の盡力可致旨約言致候に付、帰館の上別紙甲号の通り伊集院領事に電報致し、能ふ丈の妨害手段を執らしむることとせり(次て同領事と別紙甲の1、2、3、4、5号の通り電報往復を為す)。
将又露国公使館書記官ケルベルグ氏は、絶影島に於ける同敷地踏査の任務を帯び、軍艦シウイチ号に乗組み釜山に赴き、我石炭庫の西側に於て約30,000方米突の地所を撰定したり。
然るに右地所内には、先年総税務司ブラヲン同所に出張し、各国租界予備地として撰定したる地区及び、我居留民の所有地をも包含せる旨、伊集院領事より来電に接候間、本官は9月1日、国分通訳官を外部に遣し、閔外部に向って我居留人の所有に関する地所は、右敷地区域内より取除かれたき旨、併し単に炭庫建造を目的とするには、左迄広大なる地区を要せざるべく、随て我借用炭庫地位の面積にて事足るべしとの勧告を与へ、且之に同意なるに於ては早速釜山港監理へ訓電すべき旨をも併せて申込ましめ候処、同官は之に同意し、即日別紙乙号の通り監理事務に訓電を発したり(右の訓電を発するに当り、閔外部は稍躊躇の色ありたるも、同協弁以下各局長等の強する所となり、終に同意したるやに相聞へ候)。
釜山監理は之を以て、出張書記官に反覆説明したるにも拘はらず、書記官ケルベルグ氏は固く自説を執り、変更は勿論少しの譲歩をも肯せざるしとの事に有之候。
然るに、斯く専断にも、露国書記官に於て各国租界予備地を敷地内に取込みたるは不当なりとの議論、使臣間の問題と為り、偶然之れが反対者に好辞抦を与へたる結果、即ち英総領事は、外部大臣に向って論議の末、右租界予備地を他に貸与せざる事に同意せしめ、尚又之れが言質を収むる為め、別紙丙丁号の通り文書を往復するに至れり。
而して書記官ケルベルグ氏は、本月上旬帰京の上、撰定地の図面を携へ、一昨22日外部に出頭し、協弁高永喜氏と談論長時間に亘りたるも、高協弁は各国租界予備地なるの故を以て、始終之に抗議し同意せざるを以て、終に其結局を見るに至らずして、一と先づ引取りたる由に有之候。
此段別紙相添へ、及具報候。
敬具
要するに、今回の件に関する纏めですね。
ただ、これまでの史料には無い部分があります。
まずは、8月25日。
つまりロシア書記官ケルベルグが絶影島視察に行く前に、すでにイギリス総領事ジョルダン及び総税務司ブラウンに話をつけ、釜山税関長のハントに内訓して、日本領事と協同して妨害するようにする事を約束したんですね。
尤も、別紙を見るに、ハントに関する話はそう簡単でも無いようですが。

で、前回はケルベルグの選定地を40,000坪(約13万平米)と書きましたが、ここでは3万平米だねぇ・・・。
先ほどの地図でを見るに概算で10万平米くらいと思われ、「拾」が抜けたと考えるのが妥当かな?

そして、先ほど「中央政府より釜山監理の方が立派じゃないか。(笑)」と褒めたわけですが、実は政府側からも訓令が出た、と。
まぁ、外部大臣の閔種默は躊躇していたようですが、外部協弁高永喜以下局長にも強いられて出したようですがね。(笑)
それにも拘わらず、前回のとおりケルベルグは固執して、変更にも譲歩にも応じない。

一方、外国使臣間で、租界予備地を石炭庫用地に含むって何様のつもり?という議論が起き、結果イギリス総領事ジョルダンが外部大臣閔種默と論議し、租界予備地は他国に貸さない事を同意させるんですね。
ここでケルベルグが釜山から帰ってくるんですが、時已に遅しという事になった、と。

丁度、ロシア公使入れ替わりの時期だった事が大きいんでしょうねぇ。


今日はこれまで。



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