日韓基本条約の関係諸協定,日韓請求権並びに経済協力協定(財産及び請求権に関する問題の解決並びに経済協力に関する日本国と大韓民国との間の協定)」と、「日韓請求権並びに経済協力協定,合意議事録(1)」と、「対日8項目要綱」を百万遍読み返して、出直してこいというニュースが続く中、皆様如何お過ごしでしょうか。

恥ずかしながら構成の間違いで、前回お届けできなかった「ある事件」。
恥ずかしいついでに、間違いやら追記やらもありまして・・・。
スランプ中っつう事で、ご勘弁を。(笑)
ということで、本日こそ事件について。

史料は前回同様、『2 明治37年12月19日から明治38年1月4日(韓国ニ於ケル進歩会一進会関係雑纂)(レファレンスコード:B03050325600)』より。
話は少し戻る。
前回、関谷警部らが全州に出発した前日、1904年(明治37年)12月25日発『第780号』より。

【1画像目】 【2画像目】

負商・褓商の団体にして、急に其方針を変じて政府反対の態度を採る共進会の会員等は、昨日李裕寅、具本淳の二人を引致せり。
之れがため、政府大官連は大に恐惶を来せり。
以て会員の重立たる他の3名を警務庁の取押へ、会員等多少激昂の模様あるも格別のことなくして済む可き見込みあり。
要するに政府の無能と、宮中に雑輩の出入等政務の渋滞と腐敗とを来たして愈甚為がため、会員の激昂を来したるの結果と云ふの外なく、引致せられたる両人は、何れも宮中に易者人相見などの出入せる端緒を開きしものなりとの理由に基くよしなり。

本官は、従前為し来りたる宮中の規律の維持・施設改善の忠告は、只に一再に止まらず、韓帝及政府の大官は何時も之を容るるも、今日に至る迄一として実行せられたるものなく、之れが為め民間の不平は日増に甚為、大官連の失意者も少からざれば、暗に民間の徒と気脈を通ぜるやの■会もありて、到底終騒を免がる可らずと思考すれば、此の際本官は一層進んで施政の改善を計るため、場合によりては内閣改造を促し、同時に一方に於て警察権を我手に収めて、永遠に秩序を維持するの途を講ずるを必要と認む。
但し、共進会が猥りに警察権を自ら行ひ人民を捕縛するは不都合の次第に付き、相当の懲戒を加ふる様措置せしむべし。



んー、最初からいきなり難しい。
まず、共進会という組織は元々尹孝定の作った組織。
尹孝定は、このブログでは、1903年の禹範善殺害計画の首謀者として、及び大韓協会の事実上の統率者として紹介してきた。
1909年(明治42年)の統監府の『韓官人の経歴一般』によれば、1903年に日本に亡命していた理由は、露館播遷で高宗がロシア公使館に逃げ出している際、皇帝の譲位と皇太子代理を画策し、当時の露党政府にばれ、加藤公使の援護で亡命したとされている。
共進会→憲政研究会→大韓自強会→大韓協会を設立していった首謀者とされ、かなり面白そうな人物である。
今度、詳細に調べてみたい。

と、話が逸れた。
褓負商とは、簡単に言えば行商人の事。
1898年に「独立協会」に対抗して政府が組織した、「皇国協会」の中心であったとされる。
この「独立協会」と「皇国協会」の争いも面白そうなんだよねぇ。
嗚呼、どんどん宿題が増えていく・・・。

褓負商、独立協会、皇国協会と、共進会との接点を示すような物は無く、この史料はちょっと判断に迷う。
現段階では判断を保留しておこう。

一方で李裕寅は、皇国協会に名を連ねている。
つまり昔は褓負商側の人間。
基本的に、李朝や大韓帝国時代の政治的組織というものは、その時々の利益や敵対者の行動によって、言動が180度変わったりするので注意が必要である。
易者や人相見が宮中に出入りする切っ掛けを開いたとの事であるが、実際に関連しているか、及び具本淳が何者であるかは不明。
閔妃の行状等を見るに、それ以前から怪しい人物が宮中に入り込むような状態であったのではないかと思うのだが・・・。

因みに李裕寅は、『高宗実録』によれば1904年(光武8年)12月22日に宮内府特進官に任命されている。
この関係で権力闘争が起きたのかも知れない。

それは兎も角として共進会、強引すぎ。(笑)
共進会で拘束された3人は、『皇城新聞』によれば尹孝定・羅裕錫・そしてハーグ密使の一人で、顔の腫物を切って円毒に罹って死亡した李儁とされている。

そして「場合によりては内閣改造を促し、同時に一方に於て警察権を我手に収めて、永遠に秩序を維持するの途を講ずるを必要と認む。
この部分だけを引用して、日本の侵略云々言い出しそうな人が居そうで、恐いわけですが。(笑)
全文を読めば分かるとおり、高宗や政府は施政の改善をしようとせず、民衆の不満や反対派の画策で騒動が収まりそうにないから、収める為に場合によっては内閣を改造させて、警察権を得て、永遠に秩序を維持できる道筋作りが必要だという話ですね。
永遠にするのは、警察権ではなく秩序だ、と。
尤も、その辺りを整理すれば、韓国人の起こす騒動が収まると思っている辺りが、日本人のスイートな所ですが。(笑)

この話の続きが、1904年(明治37年)12月29日発『第787号』となる。

【1画像目】 【2画像目】 【3画像目】

共進会員が李裕寅以下を引致し暴行を逞しくしたる結果、政府は此に対し会の重立たるもの3名を捕縛せるの外、尚進んで共進会・一進会を強力を以て解散せんとし、一昨日以来、引続き韓国巡検又は兵丁と会員との間に、白画街道に於て闘争を生じたり。
昨日午後に至り警衛院は、一進会の重なるもの3名を召喚し解散を命ぜんとするに際し、巡検及兵丁は該2名を手荒く取扱ひ、一進会員の激昂を促し、昨夜に至り同会員数百名警衛院に押寄せ、該2名の会員を奪ひ去りたり。

初め、既電の如く共進会員が■に他人を捕縛せるに当り、陛下よりは本官に対し此に関する意見を求められたるに付き、本官は共進会の行動全然非なる次第を奏上し、又長谷川司令官は去る25日謁見の際、陛下の下問に対し同様の奏答をなしたることあり。
陛下及之に関連して権勢を得んとする大官等は、本官并に長谷川司令官の奏言に自分勝手の解釈を加へ、非常の強圧手段を以て集会を此の際解散せんとし、之れが為め如上の激昂重るに至れり。

本件は只■■の■韓国側のみに限り、本邦側とは何等関係を有せずと雖ども、前述の如く政府并に民会共に暴行を逞ふし、京城をして無秩序の状態に至らしめ、我が威厳に関すること大なるを以て、本官は軍司令官と協議し我が手を以て京城内の秩序維持に任じ、各種の集会に対し一定の制限を設け、且つ韓国官吏が例外の暴行をなすことをも禁止することに取及ぶべし。
尚、本官が午後謁見の際此の趣意を奏上する筈なり。



何か知りませんが、一進会が巻き添えになってますな・・・。

共進会のこの時の行動の是非を問われれば、李裕寅、具本淳の二人を拉致するなど当然非である。
それを自分勝手に解釈して強圧手段。
前回の『第774号』による日本側の忠告は、全く無視されていますな。(苦笑)

続きが、午後の謁見を終了した林公使による、同日1904年(明治37年)12月29日発『第788号』。


本日午後、韓国政府は一進会を解散せしむる為め兵丁を派し為の混雑後、会員数名に負傷せしめたり。
此騒擾を視察せるため出張したる我憲兵は、兵丁の為め飛礫を投ぜられ、該憲兵は幸に負傷せざりしも、■て出張したる我が士官1名は、同じく兵丁の投じたる石にて頭部に負傷したるを以て、我軍隊は兵丁を指揮し居りたる韓国士官3名を引致し取調中なり。
右の事態は、本官の■く京城内の秩序取締を全く我手にするの必要を■■確したるに付、本官は軍司令官に協議上、韓国人民の集会に関する一定の取締法を設け、我憲兵をして之を■■せしむることに直に取及ぶべし。
又本官は、本日謁見の際右の次第を奏上し、且陛下をして右様我軍隊の措置に付陛下に疑念なき様説明し、陛下の同意を得たり。

過日来一進会及共進会と当国政府との■に生じたる騒擾は、其■■■重大なる者にあらず。
随て京城内の秩序を乱すの■■には至らざるも、本官は予め相当の措置を採りて事態を重大ならしめず、且此時機を利用して警察権を我手に収むるを必要とし、右様の措置を採りたり。



達筆な人、嫌い。(笑)

韓国政府が出動させた兵丁が投石ということは、銃等による取締を行っていなかったのか、銃を持っていなかったのか、どっちなのでしょう?

兎も角、兵丁の投じた石が、日本軍の士官に当たり怪我を負わせた、と。
そしてこの事件を元にして、日本側が治安維持に介入することになった、と。
韓国人なら、日帝の陰謀などと言い出しそうな事態ですなぁ・・・。
まぁ、李朝及び大韓帝国政府って、いつもこの調子なわけですが。


今日はここまで。


一進会(一)
一進会(二)