今日は、それほど事件と関係無い事ながら、結構面白い史料から。
1909年(明治42年)2月22日付、『憲機第413号』より。


一.天道教主孫秉煕は、前年一進会の設立と共に教徒を多く同会に奪はれたるを以て、常に一進会に対し不満を懐き居りしが、幸に教徒権東鎭、呉世昌、李秉昊等が大韓協会に入会し専ら同会を援助し居れるより、今回宋秉畯の対魚潭事件を好機逸すべからずとし、一進会を滅亡せしめんとて京城及地方の天道教徒を全部大韓協会に入会せしめ、一進会の侍天教に於ける如く天道教を大韓協会の主教とし、大韓協会の地盤を堅固ならしむることに力め居りしと。

以上



 孫秉熙


天道教と侍天教。
いずれも「東学」が元にする宗教であり、教義はほぼ同じとされ、一般には「抗日」の天道教と「親日」の侍天教としか分けられていないようである。

孫秉熙が「東学」を「天道教」に改称した正確な年月日は不明であるが、恐らく孫秉煕が日本への亡命から帰国した、1906年頃の成立とするのが妥当なのだろう。
一方、李容九が「東学」を「進歩党」としたのも正確な年月日は不明である。
この「進歩党」は、1904年に宋秉畯の「維新会」と合併し「一進会」へと姿を変えるのである。
そんな中、李容九が立ち上げたのが「侍天教」という事になる。

この史料の内容の信憑性は定かではないが、教徒を一進会にとられたのを恨んで、対抗組織に肩入れというのは、いかにもあり得る話である。
その場合、「抗日」と「親日」で分けるのが正しいのかどうか。
一般に言われている、李容九らが天道教から追放されたという話は、何の史料に基づくのか。
非常に面白い史料だと思うのは、私だけ・・・かも知れない・・・。


それほど関係ない史料で長くなってしまった・・・。
気を取り直して、前回の中枢院による建議書の返却の続きから。
曾禰副統監から伊藤博文への1909年(明治42年)2月23日付、『往電第8号』より。


李首相より閣下に申出たる宮廷列車中の出来事に付、中枢院より建議書を内閣に送付し、内閣側よりは書記官長の気付を以て之を返却せり。
其外に、個人の名義を以て小官に書面を送り、不敬罪を問ふべしと請ふものありて、今後とも仍ほ多少の運動を為すの様子なきに非ず。
而して此運動は、当局の使嗾に出づとの怪しき聞もあり。
元来、当時の実況は呼子警視の報告に依り古谷秘書官より中止たる儀なれば、閣下は既に御熟知のことと考ふるが故に、小官は唯今は沈黙を守り居るのみ。



「当局の使嗾に出づとの怪しき聞」における当局とは、恐らく李完用の事である。
その「怪しき聞」と思われるものが、1909年(明治42年)3月2日付『憲機第473号』に報告されているからである。


一説
大韓協会中有力なる一会員の言に依れば、大韓協会に於て宋秉畯の非行を摘発して、激烈なる攻撃を為せしは、単に大韓協会員のみの発意に非らず。
陰に、李完用が宋を倒さざれば将来其地位に危険の及ばんことを虞れ、之を倒さむ策として、魚潭の争論を好機とし、同会の重なる輩を教唆し、以て同会をして宋に対する皮肉の攻撃を敢てせしめたるものなりと云ふ。



宋秉畯を攻撃しているのは大韓協会だけではなく、政敵を倒す策として李完用が大韓協会員を教唆したというのが「怪しき聞」だと考えられる。
いや、あり得ない話では無いのだが、現実には李完用も大韓協会に攻撃されてるわけで、根も葉もない与太或いは離間策と考える方が妥当であろう。

さて、このような騒ぎの中、一つの暗号電文が伊藤から曾禰へと送られる。
1909年(明治42年)2月24日付、『来電第2号』である。


目下の状勢を観察するに、宋内相の辞職は已むを得ざることと思考するにより、宋内相従来の志願に基き、辞表提出する方然る可き旨諭示し、本人も大に満足して承諾せり。
辞表は郵便にて送る筈なり。
但し其日附は、韓皇京城還御の当日にすることとせり。
此旨、李総理大臣に御密示ありて、後任は朴斉純にて可然き旨をも併せて御示ある可し。



ちなみに宋秉畯はこの時、事件から逃げ出すかのように渡日していた最中である。

宋秉畯が何時辞任を志願したのかは不明であるが、しでかした事が事でありこれは已むを得まい。
弁解の余地は無いだろう。
後任は、6月11日のエントリーで記したとおり朴齊純となった。

さて、こうして内部大臣を辞職することとなった宋秉畯。
しかし、騒動は暫く収まる気配を見せないのである。


今日はここまで。


宋秉畯・魚潭争闘事件(一)
宋秉畯・魚潭争闘事件(二)
宋秉畯・魚潭争闘事件(三)