韓国軍解散に当たっての概略は、これまでの連載で既に述べてきた。
一方で、7月12日のエントリーで記した様に、残された者もいたのである。

アジア歴史資料センターの『韓国駐箚軍 韓国軍隊解散に関する件(レファレンスコード:C03022884200)より、3画像目4画像目5画像目を見てみよう。


韓国軍隊解散要領

解散すべき軍隊・学校左の如し
第一次(戦闘力を有するもの)
歩兵五個連隊(京城)騎、砲、工兵隊、教成大隊、地方隊
第二次
憲兵隊、旅団司令部、研成学校、輜重隊、洪陵守衛隊

残存すべき部隊、官衙、学校左の如し
軍部、衛生院、侍従武官、親王附武官、陸軍法院、陸軍監獄、軍器廠、陸軍武官学校、陸軍幼年学校、軍楽隊、歩兵一大隊(第1連隊第二大隊の予定)

将校下士卒の処分
一.軍事教育ある優秀の将校は、軍隊、官衙、学校等に採用し、猶残余あるときは日本軍隊に於て教育す。
二.軍事教育ある優秀な下士は、軍隊、官衙、学校等に採用す。
三.将校にして軍事額の素養なきも、普通の学識を備へ技倆あるものは、文官に採用す。
四.武官に採用せざる将校、准士官、下士卒(下士卒は■部)に一時賜金を給す。
下士卒一時賜金の額、左の如し。
但し将校、准士官の賜金額は、追て之を定む。

下士 80円(地方隊は60■)
兵卒 50円(地方隊は30■)

在営期1年未満の下士卒は、半額を給す。(青北大隊には1年未満の下士在隊す)
但し有罪者にして現に服役中のもの及解隊の際逃亡者には、一時賜金を給せざるものとす。

 (以下略)



こうして残存すべき部隊、官衙、学校がそれぞれ残された。
そしてそれらに採用されなかった者には、恩賜金が給付されたのである。
一方で、優秀な者は残存する各機関に採用された。

その約2年後。
まずは、アジア歴史資料センターの『軍部廃止ニ付電訓ヲ乞フノ件(レファレンスコード:A03023677600)』を見てみよう。(1画像目2画像目


寺内陸軍大臣と協議せし、軍部を廃し侍従武官長の下に親衛局を置き、現在の歩兵一大隊と騎兵を監理せしめ、士官学校を廃し、生徒は東京に於て我陸軍にて教育を引受け、卒業の者は之を我軍隊に就属し、実地に練せしむることに取定めて御異存なきや、陸軍大臣と御協議の上電訓を乞ふ。


という事で、軍部及び士官学校が廃止される事となってしまうのである。
1909年(明治42年)7月31日付『憲機第1522号』より。


韓国軍部廃止の件は、7月31日官報を以て7月30日附左の詔勅を発せられたり。
詔曰、朕将来臣民の発達の程度を視て増兵を要する時に至る迄、軍部及武官学校を廃止し、現在兵は宮中に親衛府を置き之を管掌せしめ、士官養成は、之を日本政府に委托し其軍事に練達せしむるにより、爾衆庶は朕の意を克く体せよ。



1909年(明治42年)7月31日公布『軍部廃止、親衛府新設及之ニ附帯スル件(隆熙3年韓国勅令第68号)』によって、2年前に残された軍部及び武官学校が廃止されたのである。
最も、これに続いて『親衛府官制(隆熙3年韓国布達第3号)』『侍従武官府官制(隆熙3年韓国布達第4号)』『東宮武官府官制(隆熙3年韓国布達第5号)』『近衛騎兵隊編制ノ件(隆熙3年韓国布達第6号)』『近衛歩兵隊編制ノ件(隆熙3年韓国布達第7号)』が出されており、実質的に所管が軍部から宮中に移っただけであるという見方も可能であろう。
ちなみに、親衛府の初代にして最後の長官は、李秉武であった。

一方、武官学校の廃止について。
それは次回の連載最終回のお楽しみ。(笑)


今日はここまで。


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