日韓歴史研究 難しいからこそ

この社説を書いた記者は、もっと文字なり文章なり本なりを読む訓練をし、報告書をキチンと読んだ上で、ものを書いた方が良い。


忠北市民団体、山梨県に「歪曲歴史教科書採択しないで欲しい」

この市民団体は、もっと文字なり文章なり本なりを読む訓練をし、扶桑社の教科書をキチンと読んだ上で、非難した方が良い。


さて、前回の最後の公文において、他国への譲位の声明を依頼された伊藤博文。
この声明とは別に、7月19日に各国領事館へ照会を出している。
その照会の元となったのが、本日最初に紹介する1907年(明治40年)7月19日付『往電第68号』である。


林大臣より(後に『往電第71号』により、「西園寺総理大臣へ」に変更)

今19日午後7時15分、勅使法部大臣趙重應来って左の勅旨を統監に伝へ、本大臣及び鍋島外務総長も列座。
親しく之を聴取れり。(以下別紙括孤内)

7月19日午後7時15分
法部大臣来って左の勅命を統監に伝ふ。

譲位の事は、朕が衷心に出づ。
敢て他の勧告又は脅迫に出たるものにあらず。

朕は、十年前より皇太子をして政治の事を行はしめんとの意ありしも、時期到逹せざりし為、荏苒今日に及べり。
然るに今日、即ち其時期に逹すと思考せるを以て、朕は任意、位を皇太子に譲れり。
而して朕が此措置は、自然の順序を践み、宗社の為賀すべき事なるに係はらず、却て愚昧の臣民、其主義を誤解し、徒に憤慨し、或は暴動を企つるものなきを保せず。
統監に依頼し、此等のものを制止し、或は事宜に依り鎭圧する事を委任す。

勅使
法部大臣 趙重応 花押
勅使法部大臣趙重応所齎勅語対坐筆記為証博文



ここで暴徒鎮圧の委任の勅命を受けたのである。

ちなみに、「10年前より皇太子をして政治の事を行はしめん」はあながち嘘では無いかもしれない。
神戸大学大学院国際協力研究科の木村幹教授のHPには「1895.8.23.王太子上訴譲位」とあり、恐らくこれは高宗実録あたりの記述であろうと考えられる。
純宗が10年(正確には12年)前に譲位の上疏を為していたのであれば、高宗の考えの片隅にそれがあったとしてもおかしくは無いだろう。
まぁ、原文確認はしていないので、覚書というか参考までに記しておく。


(本文とは全く関係無い趙重応から徳富蘇峰に宛てられた封筒。日付は奇しくも7月18日(明治44年))


ここで実際に暴徒に関する史料、1907年7月19日付『往電第69号』を紹介しておこう。


西園寺総理大臣へ

今朝来、市民等店舖を鎖し各所に集合する等、人心稍々不穏の情況ありしを以て、顧問警察は厳に警戒を加へつつありしに、午後4時30分頃、韓兵の一部隊(約一中隊)兵営を脱し、鍾路に現はれ銃を放ち、補助員等(我巡査)を襲撃し、警部1、巡査3即死し、其他負傷者約三十余名を出せり。
負傷者多く、漢城病院收容治療中。



韓国軍の一個中隊程度が反乱を起こし、警部1名、巡査3名を殺害。
この『往電第69号』の報告を受けて、伊藤はようやく決断を下す。
1907年7月19日付『往電第69号』より。


西園寺総理大臣へ

往電第68号及69号に関し、本官は韓帝の御委任に依り、京城内の秩序を維持する為め相当の処置を取るべき旨、正式に長谷川司令官に命令せり。
70号の件は、各国大使、公使に可然御話相成りたし。
又新聞紙に漏さるるも差支なし。



ということで冒頭の、譲位声明とは別の照会についての話に戻る。
この照会原文は英文であり、長くなるため敢えて記載しない。
簡単に言えば、暴動が予想されることから、各領事館へ警備隊を派遣する必要の有無に関する照会である。

これに対してアメリカ・イギリス・ロシア・ドイツからの、そういう場合が来たら送ってくれという意味の回答が残されているのであった。

この他、日本政府の対外的な動きとして、1907年7月21日付『来電第154号』を見てみよう。


林外務大臣へ

在本邦英仏米大使夫々本官を訪ひ、閣下の御渡韓より韓国問題に談及し我が意向を探らんと試みたるが、本件は日々新聞紙に喧伝し、全然無関係なる返答も為し難きに付き、閣下の御旅行は、密使事件と関係なきに非ざることを述べ、韓国皇帝が密使を派遣せられたるは日韓協約の精神に反するものにして、帝国政府は其の名誉と権利に対し、併せて帝国が担任せる国際義務の関係に於て之を黙視するを得ず。
然れども、其の善後の処分は実地の状況にも由ること故、閣下に於て伊藤統監と御協議の上、定めらるべき旨を答へたるに、3大使とも帝国に於て何等処分を執るは不得已の事なるべしと云ひ、英大使の如きは韓国皇帝をして日本へ居を移さしめては如何といへり。
右は、我が意向を探知する為め発したる問ならんも、為念申添ゆ。



ハーグ密使に対する制裁処置はやむを得ないと、三国の大使からのお墨付き。

さて、肝心の他国への譲位の声明について。
1907年7月21日付『来電第158号』より。


林大臣へ

韓帝譲位の件は、韓国の各條約国に其れぞれ我が大使・公使をして公然通告せしめ、露国へは本野公使より「Un Officially アンオフヰシアリー」に通知する様取計ひ置けり。
又、譲位に関する顛末の要領は、貴訓に依り当地駐在各大使公使へ其れぞれ打明け、尚ほ新聞紙へも発表せり。



何故ロシアだけ非公式なのだろうか。
ロシアへ非公式に譲位の通告をすることで釣られるのは・・・やっぱり大韓帝国なのかなぁ・・・。(笑)


ということで、今日はここまで。


皇帝譲位(一)
皇帝譲位(二)
皇帝譲位(三)