李泰鎮氏の回答(一)
李泰鎮氏の回答(二)
李泰鎮氏の回答(三)
李泰鎮氏の回答(四)


毎日、李泰鎮教授の言い訳ともつかない、学者とは思えないレベルの回答の解説をしていると、何だかわけの分からない徒労感に襲われる昨今、皆様如何お過ごしでしょうか。(笑)
さて、解説も本日を入れて後二回。
気合いを入れ直していきます。


質問9

【遺体を燃やしたと記録されている。】との記述について。
 
既に繰り返し指摘しているとおり、当該文書は【由】字を以て伝聞であることを明示している。
如何なる理由を以て明確な証拠の如く扱うのか、その根拠をお教え頂きたい。  


回答9

上の5の答弁を参考してください。
天皇にまで上がった文書なら、関係者たちがそれを事実として認めたことと見なしてもよいと考えられます。


では私も回答5の解説をどうぞ。
と終わってしまっても良いのだが、それではつまらない。

一言だけ言っておこう。

関係者たちが認めた「事実」は、「内田が『誰か(この誰かは、別な史料から明らかであるが、勿論李泰鎮教授はご存じであろう)』から『(4)点ニ於テ焼棄テラレタ』と聞いた事」ですね、と言われたらどうしますか?



質問10

【李泰鎭教授は「室内ではなく、宮廷の庭先で多くの人が見守る中、殺害されたということは、当時の状況が刺客による暗殺ではなく軍事作戦同様の宮城占領事件だったことを意味する」とし、「日本が殺害場所を長い間隠蔽したという点から、彼ら自らこの事件が明らかな蛮行であったことを認めたと言える」と話した。】との記述について。
 
【多くの人が見守る中、殺害された】と【軍事作戦同様の宮城占領事件だったことを意味する】の間に、何ら論理的な整合が見受けられない。
いかなる規範を以て述べているのか、お教えいただきたい。
 
また、【日本が殺害場所を長い間隠蔽した】と断ずる理由について、【隠蔽】を明示する史料を以て、回答いただきたい。
 
更に、繰り返すまでも無く、当該文書は伝聞を記したものに過ぎないのであり、【隠蔽】の語とは大いに齟齬を来すと当方には思われるが、如何。


回答10

内田第1次報告書によると、日本人たちが景福宮の正門の光化門を通過する時に、日本守備隊の助けによって門を壊して入ったとされています。
記者は、これは軍事作戦と似ていることで見なしてもよいではないか、と質問してきました。
第1次報告書と他の目撃記によると、当時乾清宮の一帯が騒乱の場になったというのは事実です。
小早川などの日本人の弑害加擔者たちの目撃記が、一様に王后を弑害した場所が、坤寧閣の室内だとし、今まではそのように知られてきました。
第2次報告書は『日本外交文書』に収録されておらず、市川の『日韓外交史料』にようやく公開されました。
しかして上に指摘したように、その実状についてはきちんと知られてない状態だので、既存の見解が修正されなかったのです。
何れにせよ市川以前までは隠蔽の意図があったと判断する余地があると考えられます。


【多くの人が見守る中、殺害された】の解釈については、何ら説明が無い。
室内で殺されたとされていた過去の史料は当然として、『機密第51号』にもその記載は無い。
どうやら韓国史学では、脳内ソースで確定できる事項であるらしい。

また、李泰鎮教授が勝手に名付けた内田第1次報告書とは、『機密第36号 明治二十八年十月八日王城事変顛末報告ノ件』であると思われる。
しかしながら、「日本人たちが景福宮の正門の光化門を通過する時に、日本守備隊の助けによって門を壊して入った」などとは、どこにも書かれていない。

書かれているのは、
光化門前二於ケル我守備隊ノ兵営ヨリ、予ネテ用意セル梯子及斧等ヲ領収シ、之レヲ用ヰテ、該門ノ近傍ヨリ高壁ヲ乗リ越シ、門内ニ入リテ番兵ヲ追ヒ払ヒ、内部ヨリ鎖錠ヲ解キ、之レヲ引明ケシカバ」(読点補記。以下引用同)
である。

ここでも李泰鎮せんせいは、史料を読めていない。

残念なことに、今度は新聞記者は居ないのである。(笑)



記事は「宮廷の庭先で多くの人が見守る中、殺害されたということは、当時の状況が刺客による暗殺ではなく軍事作戦同様の宮城占領事件だったことを意味する」であり、門云々が軍事作戦などとは、何処にも書いていない。

つまり、前段部と後段部の繋がりに、論理的整合性が見られないとの指摘には、全く答えていないのである。

ちなみに、「引明ケシカバ」の直後の文言はこうだ。
門外ニ到着セル大院君一行ノ者ハ、俄カニ吶喊シテ門内ニ突入セシガ

なるほど。
大院君主体の軍事作戦だったわけですね?
(ゲラゲラ



次に、李泰鎮教授が勝手に名付けた第2次報告書とは、文脈上『機密第51号』を指すようである。
しかし『機密第51号』の前に、『機密第40号 京城事件顛末報告ノ件』という報告書がある。
もしかして李泰鎮教授は知らないのであろうか。
そのような状態で「新発見」など、烏滸がましいにも程がある。

『日本外交文書』の当該時期(明治 第28巻 第1冊)は昭和28年出版である。
外交史料館は昭和46年開館である。
(この時には『韓国王妃殺害一件』が公開されているのは、これまで書いてきたとおり。)
市川編の『韓国王妃殺害事件』は昭和56年出版であって、外交史料館の公開史料も用いていることが明記してある。

時系列順に並べれば一目瞭然である。
当該文書は、『日韓外交史料』に載ると載らずと、既に外交史料館において公開されていたのである。

そもそも、『日韓外交史料』に『機密第51号』が収載されている事自体、その史料が既に公開されている証ではないか。
よくもまあ「市川の『日韓外交史料』にようやく公開されました。」などと言えるものである。

もしかして李泰鎮教授は、解題すら読まずに資料集を使うのだろうか?
そして、市川資料集を見ていれば、機密第51号が「第2次」では無い事を理解している筈だ。

君、市川資料集、読んでないだろ?


さらに、「隠蔽の意図があったと判断する余地がある」とのことである。
韓国史学界では、裏付けが無くとも、「余地」があれば、あたかも確定事項のように発言できるようだ。

嗚呼、成る程。
納得した。

これが、珍妙な歴史解釈をみせる韓国史学の源泉なのだ。(笑)




質問11

【12月21日に作った今度の文献は、初め明かされたのだ】との記述について。
 
当該文書(機密第51号)は、市川正明編『(明治百年史叢書 第288巻)日韓外交史料 第5巻 韓国王妃殺害事件』(原書房、1981年)に、既に排印の上収録されており、既知のものである。
同書は、日本の80以上の大学図書館や、その他多くの公立図書館にも収蔵されている、いわば基本書である。
にもかかわらず【初めて明らかになったものだ】と主張なさったのは、如何なる根拠に基づいたのか、また如何なる目的によるのか、更に学術上如何なる意義を有するのか、御説明願いたい。


回答11

上の1と5の答弁を参考させたいです。
市川正明の編纂作業は全体的に素晴らしいものであるが、残念ながら内田の第2次報告書の場合は上のような重大な瑕疵があります。


市川正明氏と李泰鎮教授のどちらに瑕疵があるかは、賢明な読者にはお分かりだろう。

質問でわざわざ「排印」と述べたように、市川資料集は編纂資料であり、初めから史料性が制限されているのが当然である。

李泰鎮教授が「もし」、市川資料集について過去に知っていたのなら、1997年まで原本確認をしなかったのは、李泰鎮教授自身の怠慢であろう。

そして、回答10の解説で指摘したとおり、そもそも、市川資料集を見ていれば、機密第51号が「第2次」では無い事を理解している筈であり、少なくとも市川資料集を熟読しているとは言い難い。

市川資料集では正しく読まれている「セル」「御」等々を読めず、「もっとも重要なものである『見取図』」と主張しながら、朱筆で書かれた(1)も見つけられず、解説文に恣意的な主語を勝手に書き加え、誤字・脱字だらけのノートを、史料として新聞に掲載されるのを容認し、公開史料を【初めて明らかになったものだ】と報道機関に発表させ、質問状を受ければ、自らの怠慢による調査不足を棚にあげて、編纂史料に「重大な瑕疵」があると言い逃れに徹する。

君、学者として、恥ずかしくないのかね?



李泰鎭の回答も無いので(一)
李泰鎭の回答も無いので(二)
李泰鎭の回答も無いので(三)
さよなら、李泰鎭