昨日は、当時の社会背景に力を入れすぎて、安重根の話がほとんどありませんでした。
申し訳ない。

気を取り直して、続きの安重根の演説より。


安重根の演説

「現在、わが祖国の惨状を君等は果してどの程度知っているのか、日本が露国と開戦したとき、その宣戦布告書に、東洋平和の維持、韓国の独立の堅持を謳いながら、今日に至るもそのような信義は守られず、かえって韓国を侵略し、5ヶ条の条約、7ヶ条の条約を結んだ後、政権を掌撞し、皇帝を廃位し、軍隊を解散し、鉄道、鉱山、森林、河川などみんな掠奪してしまった。



独立の堅持を成し遂げるためには、高宗を始めとする、宮中の勢力を取り除かない事にはどうにもならない。
 
現に、鉄道、鉱山、森林、河川などは略奪したのではなく、高宗と閔妃が諸外国に売り払ったのである。
 
挙げ句、その場限りの思いつきによって誠意の無い外交を繰り返し、諸外国にすら呆れられる状況を作ったのが宮中ではないか。
 
情報の不足や歪曲による妄想というものは、なんとも恐ろしいもので、現在の韓国に通じるものがある。


さらにまた、官衙の各庁や、民間の邸宅を兵鈷の必要と称して奪居し、肥沃な田や、昔からの墳墓を軍用地と称してこれを抜掘している。
その禍いは生きているものだけではなく、先祖にまで及んでいる。

その国民たる者、その子孫たる者で、誰がその怒りを忍び、辱しめに耐え得る者があるだろうか。
したがって2千万の民族が一斉に憤起し、国内全体で義兵が各地に蜂起している。
ところが彼の強賊どもは、かえってこれを暴徒とみなして兵を出動させて討伐し、極めて悲惨な殺戮をしている。ここ1両年の間、韓国人の害をこうむるものは10万余に及んでいる。
国土を掠奪し、生霊をはずかしめる者が暴徒なのか、みずから自国を守り、外敵から防禦する者が暴徒なのか。
これはいわゆる賊は武力で討伐しなければならぬとする韓国の法に反するものである。


この辺り、思いこみとプロパガンダが入り交じり、何を示しているのかちょっと想像がつかない。
 
東洋拓殖株式会社法の公布は1908年8月27日、東洋拓殖会社の成立は1908年12月18日であり、1908年6月以前のこの募兵に関係があるとは思えない。
 
一つだけ言えるのは、「韓国の法」など無かった事である。
そして、「韓国の法」が「賊は武力で討伐しなければならぬ」であれば、当然義兵は討伐される。
現に韓国人の警察も義兵の討伐に参加しているのである。
安重根自らが討伐に参加した東学党の乱と、この時期の義兵について、何が違うのだろうか。


日本の対韓国の政略がこのように残虐である根本をなすものは、すべていわゆる日本の大政治家、老賊である伊藤博文の暴行であって、韓民族2千万が日本の保護を受け、現在太平無事で平和が日ましに進むことを願うといつわり、上は天皇を欺き、外は列強を欺き、その耳目を掩うてみだりに自ら奸策を弄して俳道の限りを尽している。
何となげかわしいことではないか。わが韓民族がもしこの賊(伊藤)を処罰しなければ、韓国は必ず滅亡し、東洋はまさに亡びるであろう。


「上は天皇を欺き、外は列強を欺き」というが、天皇も列強も馬鹿ではない。
それでいて文句がつかないのは何故かを、少しは考えたらどうであろうか?


今日、わが韓国人は、この危急の時にあたってどうしたらよいのかと右顧左べんしても仕方がない。
一たび義兵を挙げ、賊を討つほか、他に方法がないのである。

何となれば、現在韓国の内地13道の山河の至るところに義兵の起こらないところはない。
もし義兵が敗北するならば、彼の奸賊どもは、善悪を論ずることなく、すべて暴徒と称して殺戮し、家々は放火されるであろう。
このような事態になって後に、韓民族たる者は、何の面目があって世に行動していけるであろうか。
だとすれば、今日、国の内外の韓国人は、男女老少問わず銃を担い、剣を帯びて、一斉に義兵を挙げ、勝敗を顧みることなく決戦を挑み、後世の物笑いを免れるべきである。


治安を乱すものは、須く暴徒であろう。
残念ながら、この第三期の義兵に至っても、知識人からは否定的見解で見られている。
ただし、一般国民が排日傾向にあったのは事実である。
それは、積極的な義兵支援には向かわず、愛国啓蒙運動の方へ向いていたのではあるが。


もし戦いが不利となっても、世界列強の公論によって独立の望みがないわけではない。
いわんや日本は5年以内に必ず露・清・米の3国と戦いを開くだろう。
これは韓国に対して大きな機会を与えるものである。
その際、韓国人にもし予め備えがなければ、日本が敗北したとしても、韓国はさらに他の賊の掌中に入ることになるだろう。
だから、今日より義兵を継続して活動させ、絶好の撥会を失わないようにし、みずから力を強大なものにし、みずから国権を回復し、独立を健全にすべきである。
つまり、何もできないと考えることは滅びる原因であり、何でもできると考えることは興隆の根本である。
したがって、自ら助くるものは天も助くという。
諸君よ、坐して死を待つべきであろうか、それとも瞭起して力を振るうべきであろうか」


安重根の考えによれば、義兵さえ成り立っていれば、独立は保証されるようである。
 
ここに至って、安重根は郭神父の言をすっかり忘れているらしい。
曰く「1に教育の発達、2に社会の拡張、3に民衆の意志の団合、4に実力の養成」である。
これらの理念は、義兵運動ではなく愛国啓蒙運動にこそ通ずる。
故に国債報償期成会や、愛国啓蒙運動に参加したとの話が、どこからともなく出てくるのであろう。
 
ただ、安重根自身、石炭鉱の採掘が日本人の妨害で失敗した事に触れているにもかかわらず、愛国啓蒙運動を行った事を『安応七歴史』に書かないということは、やはり眉唾物の話であると思うのである。
それでなければ、hitkot氏の調査結果の如く、触れてはならぬ事なのであろう。(笑)
 
最も、安重根の書いたことを、全て本物と仮定しての話だが。。。

尚、これによって安重根は300人の義兵を募ることに成功し、「参謀中将」に選ばれたそうである。
のちの公判でも、安重根は「義兵の参謀中将」として伊藤博文を撃ったことを強調している。


1908年6月、安は義兵を率いて豆満江を渡った。昼は伏して夜に行軍して咸境北道に到着し、日本兵と数回衝突した。
その際、日本兵数人を捕虜としたが、釈放したことがある。
これを知った義兵将校の間から不満の声があがり、「苦労しながら生け捕りにした者を釈放するのであれば、我らは何のために戦っているのかわからないではないか」と難詰した。
それに対して安重根は言う。
「賊兵がこのような暴行を働くことは神も人も共に許さぬところのものである。ところが、いま我等も同じように野蛮な行動を行ってもよいのであろうか。いわんや日本4千万の人口をことごとく滅ぼして、しかるのち国権を回復するという計をはかろうとするのか。彼を知り己を知れば百戦百勝す、現在は我等が劣勢で、彼らは優勢であって、不利な戦闘をすべきではない。ひとえに忠行義挙を以てするのみでなく伊藤博文の暴略を攻撃して世界に広布し、列強の同感を得て、国権を回復すべきである。これがいわゆる弱少な力でよく強大な敵を除き、仁を以て悪に敵するの法である」

その後、日本兵の襲撃を被り、戦闘4、5時間におよび、将卒みな分散し、生死の判断もつかなくなり、数10人と林間で野営した。
2、3日食事もとれない状態での中で飢えと寒さをしのぐ内、舞台は烏合の衆となって四散した。
さらに安重根は、12日間にただの2回食事を取っただけという中で山野をさまよい、ようやく豆満江にたどり着いた。


残念ながら、どの戦闘が安重根のグループの物であったか、定かではない。
アジア歴史資料センターの『韓駐軍 賊徒討伐行動畧図並死傷表の件』の6月・7月の分(レファレンスコード:C03022933700:C03022933800:C03022934300)において、咸境北道における戦闘が一度だけある。
7月11日の戦闘である。
 
但し、この7月11日の戦闘が、安重根率いる義兵のものであるのかは不明であり、まして日本軍が捕虜にされた記録は無い。


さて、この時代について、笑いの宝庫独立記念館にはどう書かれているかを見てみよう。


しかし、光武皇帝(高宗)の廃位と軍隊の解散など、国が植民地の状態に陥ると、再び海外に出て李範允・金斗星らと義兵を起こした。
隆煕2年(1908年)義軍中将になり、義兵部隊を連れて咸鏡北道に進撃して、慶興・会寧などで対日抗戦を展開した。


アジア歴史資料センターに、面白い史料が二つあるので紹介して、今回は終了しておく。

『第6号 韓駐軍 図們江の暴徒に関する渡過参謀の報告の件(レファレンスコード:C03022934000)』

これは、当時最大と思われる3,000人以上の勢力を有していた李範允の、図們江(朝鮮名:豆満江)渡河襲撃を行ってきた時の概要である。
残念ながら、安の名は見えない。

『第8号 韓駐軍 豆満江対岸暴徒中主なる者の姓名偵察の件(レファレンスコード:C03022926000)』

標題のとおり、図們江(朝鮮名:豆満江)の有力な暴徒の姓名の記録である。
 
名簿のある2ページ目から見てみよう。

安重根の名は無い。

3ページ目

無い。

4ページ目

・・・。

恐らく、日本軍の情報収集は甘かったのであろう・・・。