第三話である。

『東洋平和論』においては、日露戦争の日本の勝利を賞賛している安重根であるが、『安応七歴史』においては、昨日のエントリーのように洪神父から「露国が勝利すれば露国が韓国の主人となり、逆に日本が勝利すれば日本は韓国を管轄するだろう」と言われていたのである。
話を『安応七歴史』に戻そう。


洪神父から「露国が勝利すれば露国が韓国の主人となり、逆に日本が勝利すれば日本は韓国を管轄するだろう」と言われた安は、日々新聞・雑誌および各国の歴史などを読んで、過去、現在、未来の展望を推測した。 日露戦争講和締結の後、伊藤博文が韓国に来て政府を脅迫し、5ヶ条の条約を締結し、韓国の全土2千万におよぶ韓国民の心も騒然として、針のむしろに座るような状態になった。


5ヶ条の条約とは1905年11月17日の『第二次日韓協約』である。
事、ここに至って韓国人が騒然としているが、1904年2月23日の『日韓議定書』の時点で既に軍事・外交を制限され、1904年8月22日の『第一次日韓協約』の時点では、外交の他に財務に関する事項まで制限されていたのである。

 伊藤博文

そもそも当時の大韓帝国は、1894年の洪範14条の改革理念すら全うすることが出来ず、『第一次日韓協約』によって目賀田種太郎が財政顧問に就任するまで、予算・決算制度すら確立していなかったのである。

一方で、1896年
ロシアへ咸北・慶源・鐘城の金鉱採掘権
鐘城の石炭採掘権
豆満江・鴨緑江上流地域と鬱陵島の森林伐採権
アメリカには京仁鉄道敷設権
雲山金鉱(平北)採掘権
イギリスには財閥顧問の派遣と海関管理権
フランスには京義鉄道敷設権

1897年
ロシアへ財政顧問の派遣と海関管理権
軍隊の教育訓練権
ドイツに江原・金城、金鉱採掘権

1898年
アメリカにソウルの電車・電灯・水道経営権
日本へ京釜鉄道敷設権
イギリスに平南・殷山金鉱採掘権

1899年
ロシアへ東海岸における捕鯨権

1900年
ロシアへ慶南・馬山浦の栗九味租借忠北・稷山金鉱採掘権
日本に京畿道沿海の漁業権

1901年
フランスに平北・昌城金鉱採掘権など、高宗と閔妃によって、利権は次々に売り渡されていた。

これらの利権を失い、且つ税の整備、金融・商工業の発達をなしえなかったため、1906年の日本の改革による予算編成時には、3,000万円前後必要であった歳入は、748万円しか無かったのである。
つまり、国家として完全に破綻していたのだ。

韓国統監の設置という目に見える形になるまで、あるいは目に見えてからさえ、大韓帝国の人民はその内情を理解できなかったのであろう。


この後、安重根は父とひそかに相談する。
それは、「日露開戦の時、日本が宣戦布告書の中に、東洋の平和を維持し、韓国の独立を鞏固にするとあったにもかかわらず、いま日本はその大義を守らずに野心的侵略をほしいままにしている。これはすべて日本の大政治家伊藤の政略であった。先に条約を定め、次いで有志党を滅ぼし、最後に国土を併合し、これまでの政府を減ぼして法を新たにした。若し速やかに手を打たなければ、禍いはいよいよ大きくなるだろう。手を束ねて策もなく、ただ坐して死を待っていることがどうしてできようか。しかし現在、義兵を挙げ、伊藤の政策に反対しようとすれば、彼我の力関係からして無駄死にするだけである。聞くところによると、清国の山東、上海等の地に韓国人が多数居留しているということなので、われわれ一族もそれらの地域に移住し、その後で善後の方策を図ったらどうだろうか」というものであった。



安親子は、もう当時の大韓帝国が、政治的にも経済的にも軍事的にも自立できない国である事に気付いていない。
まして、この時点では併合もされておらず、政府も滅ぼしてなどいない。
法を新たにするのは、旧泰然としたシステムの改革を行うには必然である。


父との話し合いに従って安重根は旅に出、山東等の地を歴遊し上海に到着。
そこで偶然、旧知のフランス人宣教師郭神父に遭遇した。

郭神父の「お前はここへどうして来ているのか」との問いに、安は韓国の惨状を示し「現状がこのとおりで、どうすることもできないので、やむをえず、家族を伴って外国に移住し、しかる後、在外の同胞と連絡し、あまねく列国に現状を説明して、賛同を得た後、時期の至るのを待って事を挙げ、目的を達成しようと思う」とうち明ける。

郭神父は、「家族を外国に移住させるというのは間違いである。2千万の韓民族がみんなお前のようにしたならば、国内はまさに無人になってしまい、これは、相手の望んでいる通りにすることになる。フランスがドイツと戦争をした際に領土(アルサス・ロ-レン地方)を割譲したことはお前も知っているところである。以後、現在にいたるまで40年問、その地を回復する撥会はしばしばあったが、この地の有志党が去って外国に退避してしまったので、いまだにその目的を達することができないでいる。これを以て前車の轍と為すべきである。(略)古書にも、天は自ら助くるものを助くと述べられている。お前は速やかに国に帰り、先ずお前の使命の実現に努めなさい。1に教育の発達、2に社会の拡張、3に民衆の意志の団合、4に実力の養成である。この4件が確実に実現するならは、すなわち2千万同胞の決意は盤石のものとなり、千万門の大砲で攻撃されても破壊することができない。これ、いわゆる匹夫の心奪うべからずと言うものであり、いわんや2千万人の決意を奪うことはできない。そうだとするならば、奪われるところの領土は形式のみであって、約定されたところの条約は紙上の空文にすぎず、全く実質がなくなってしまう。このようにした上で事を成せば必ず目約を達することができるだろう。この策は万国普遍の例である。よく自分でこの間の事情を考慮してあたれ」と説いたのである。
安重根はこれを聴いて、「先生の言うことはもっともであり、これに従って進む」と答えた。



奇しくも安重根の父が20年前に外国留学を不意にされたように、甲申政変、甲午改革において、教育、社会の拡張、実力の養成については試みられて来たのである。
それを叩きつぶしたのは、閔妃であり、高宗であり、両班階層であり、儒者であった。
本質的問題として「抗日義兵」ではなく「革命」が必要だったのであり、郭神父の説諭は、20年遅れたものだったのである。

既に国家破綻してしまったこの時期、時既に遅しと言わざるを得まい。