< 2007年1月のエントリー >
12月に引き続き、ほぼ東学党の乱一色。
しかしながら、官軍惨敗や全州陥落と日清の出兵話等、徐々に盛り上がりは見せている気がします。
ま、何が面白いのか分かんない人は、読み飛ばして貰っても良いわけだし。( ´H`)y-~~


2007年年頭の辞

年頭の辞ではなく、年頭の愚痴ではないかというツッコミは、置いておいて下さい。(笑)


東学党の乱(二十七)

いよいよ官軍と東学軍の激突かと思いきや、霊光方面で暴れ回る東学軍を横目に、全羅道の監司を罷黜し、前古阜郡守の趙秉甲も捕縛して慰撫の意を示したという綸旨を頒布し、それでも従わなかったら討滅しろという命令が出され、ガッカリ。(笑)
おまけに、高宗の言うこと、割と誰も聞いてねぇし。(笑)


東学党の乱(二十八)

転運司が攻撃される理由や、官軍死亡者、招討使洪啓薫に関する批評、霊光の状況など重要な話ばかりなのに、中身が薄すぎてあまり意味が無い回。
尤も、重要な話ばかりなだけあって、前後で別の史料で補完されている事も、今見てみると多い。


東学党の乱(二十九)

電報漏洩が禁止されても洩れてくる、様々な情報。(笑)
5月26日付の史料だし、この時の招討軍が敗北したという風説って、そのまま風説だったんだろうなぁ・・・。
予言、ではないと思う。(笑)


東学党の乱(三十)

朝鮮漢文に基づく史料って、後から「あっ!この事か。」と分かる場合が多い。
逆に、取り上げてる時は、サッパリ意味が通じない事のが多い。
痛感。(笑)


東学党の乱(三十一)

東学軍の意気が益々上がる中、1894年(明治27年)2月4日の古阜襲撃から黄土峴戦闘までを書いた日記が、釜山の室田領事から届きます。
割と他の史料等と附合する点も見られますが、勿論鵜呑みは危険。
まぁ鵜呑みは危険と言いつつ、趙秉甲が米穀価をつり上げる為に防穀令を出す話など、初回から面白い話が見られるんで、嫌いではないんですが。
というより、寧ろ大好き?(笑)


東学党の乱(三十二)

東学党の乱(三十一)に引き続き、「東学党の擾乱に関する日記」。
この回は笑えるシーンは無いものの、古阜民乱についての記載は、中々興味深いです。


東学党の乱(三十三)

この回も「東学党の擾乱に関する日記」。
この頃にキチンと対応しておけば、もしかしてそのまま収まってたかもねとは、これ書くために再読した感想。
また、東学軍に身を投じた者が、家に帰って鋤や鍬を手にすることが億劫になり、楽な状態に馴れていない地方民が月日を忘れて陣営で遊んでる話は、割と共感出来なくもない。(笑)


東学党の乱(三十四)

この回も「東学党の擾乱に関する日記」ですね。
つうか、こんなに長かったっけか?(笑)
官軍側の失敗以外は、あまり見るべき所も無いエントリー。


東学党の乱(三十五)

相変わらず「東学党の擾乱に関する日記」。
「弊政改革のためには、太祖の治世に戻せば良い」と、東学軍が誤って火薬に着火し数十人の死傷者を出す話は、中々のポイント。


東学党の乱(三十六)

この回でようやく最後を迎える、「東学党の擾乱に関する日記」。
黄土峴の戦闘で、惨敗する官軍が見物。


東学党の乱(三十七)

「東学党の擾乱に関する日記」が6回にもわたったため、ここで一旦確定的な情報について、年表形式でおさらいしています。
これ、割と便利。
後半の史料は、分からない処だらけながら、転運委員の件は後ほどスッキリする事に。


東学党の乱(三十八)

全琫準は14歳じゃないよねぇ・・・?(笑)
ただ、この少年というか若者については、各種史料で何度か言及されているので、別途そういう人物が居たのかも知れません。
また、この回で唐突に招討軍の惨敗と、全州陥落の噂が出てきます。


東学党の乱(三十九)

この回では、やはり官軍惨敗と全州陥落の話がポイント。
ただ、そんな面白い回ではない。


東学党の乱(四十)

えーと、久しぶりに赤文字太字で突っ込んでる部分がありますが、ポイントなのは「東学党主意書の如きものは21ヶ條ありとのこと」の方。
いや、本当かどうかは勿論まだ分かって無いんですけど。(笑)
後、転運使が狙われた理由なんかも分かったり、中々深い回。


東学党の乱(四十一)

この回は招討軍への援軍の話が出てくるんですが、具体的にどのような派兵のされ方をしたのかは、1回まとめないとウリ自身も分かんなくなってます・・・。_| ̄|○
ちなみに、東学党の乱(二十四)で転運委員の金徳容が拉致られた時に、日本人云々という記述があったんですが、何故そこに日本人が居たのか分かって、個人的にかなりスッキリ。(笑)


東学党の乱(四十二)

この回は、漢陽号の機関手徳永正一の調書。
東学党の乱(四十一)でスッキリした点だけでなく、転運委員の金徳容の拉致話自体がさらにハッキリと分かります。


東学党の乱(四十三)

この回は、商人津沼米作の口述。
白山の役(仮称)って、黄土峴戦闘の事かも知れないなぁと、今更気付いた。(笑)
駄目ジャン、俺。┐(´ー`)┌

ちなみに、この時の東学軍が紛れ込む話は、後で別な史料にも出てきます。


東学党の乱(四十四)

韓妓数名を侍せ、見物人の目前で楽を奏じたりと、どんちゃん騒ぎする招討使洪啓薫。
前任の監営領将と口論の末、笞でうち、斬り殺してさらし首にしちゃう招討使洪啓薫。
本拠地全州を空っぽにして、全軍出動させる招討使洪啓薫。
洪啓薫大活躍。(笑)


東学党の乱(四十五)

現金で支給される兵糧。
飯を食わずに酒を買う兵士。
3ヶ月払われていない給料。
多分、やる気出せって方が無理。(笑)


東学党の乱(四十六)

取り上げるの忘れてた英文電報。
招討軍惨敗と全州陥落により、事態は急速に展開。
援軍要請を受ける清国と、清国出兵の確報を得る前に出兵を決定する日本。


東学党の乱(四十七)

日本の出兵について京城の杉村に報告され、招討軍惨敗時の動きについての報告があり、清の出兵話があったり、話の内容としてはかなり重要事項ばかりなんですが、その分お笑い要素は殆どありません。(笑)


東学党の乱(四十八)

朝鮮漢文に基づく史料は、やっぱりわけ分かんね。(笑)
地道に他の史料と照らし合わせていくしか無いんですよねぇ・・・。


東学党の乱(四十九)

朝鮮漢文に基づく史料って、招討使なら招討使の電報。
全羅監司なら全羅監司の電報。
忠清監司なら忠清監司の電報を、それぞれ個別に見た方が分かりやすいのかもね。
いや、やっぱ分かんないか。(笑)

ちなみに、先ほどの東学軍が紛れ込む話は、この回にも出てきます。


東学党の乱(五十)

朝鮮政府内での援軍についての史料がメイン。
また、清国の具体的な動きを探ろうとする日本側の動きも激しくなってきます。


東学党の乱(五十一)

「殺すからね。(゚∀゚)ニッコリ」がポイントな史料がメイン。(笑)
甲午農民戦争とか言いますけど、明らかに農民だけじゃないですよねぇ・・・。

また、この回で清国が朝鮮政府から公文による出兵依頼を受けた事が明らかになります。


東学党の乱(五十二)

特命全権公使大鳥圭介に出された指示書について。
出兵の理由や根拠、今後の動き方等、当然重要な話ばかりが並んでいます。
最も重要なのは、出兵根拠って事になるのかな?


このまとめ見て、つくづくまた話の筋まとめないと駄目だなぁと思ったり・・・。



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東学党の乱(五十二)

テーマ:

今日は前置き無しで。
アジア歴史資料センターから、『東学党変乱ノ際韓国保護ニ関スル日清交渉関係一件 第一巻/1 明治27年6月4日から明治27年6月6日(レファレンスコード:B03030204700)』から、1894年(明治27年)6月3日に起草され、6月4日に交付された、特命全権公使大鳥圭介に出された指示について見ていきましょう。

 (6月5日、此寫を上奏し、且つ総理大臣、陸海軍大臣に送付せり。)

今般閣下、朝鮮京城へ御帰任相成候上は、左記の件に御心得置御遵行相成度候。

一.目下朝鮮国内に起り居るところの変乱にして、此上一層其区域を広め、帝国公使館・領事館及居留帝国臣民に危険を及ぼすの虞ありと認めらるるときは、其旨直ちに電報せらるべきこと。

一.変乱の情形如何に拘わらず、清国政府より兵員を朝鮮国に派遣すべき情形確なりと認めらるるときは、其旨直ちに電報せらるべきこと。

前記2項の場合に於ては、帝国政府は直ちに兵員を派遣すべし。
尤、日韓の関係は、明治15年済物浦条約第5款及び明治18年7月18日高平臨時代理公使の知照に基因し、又日清関係は明治18年天津条約第3款の手続きを経て出兵したるものと心得らるべきこと。

一.但し、閣下の着任前と雖ども、帝国政府は在京城杉村臨時代理公使の報告に依て、出兵することあるべし。

一.帝国政府出兵の目的は、帝国公使館・領事館を護衛し、及居留帝国臣民を保護する為めなりと雖ども、若し朝鮮政府に於て変乱鎮定の為め帝国兵力の援助を乞うときは、該地出張の帝国陸軍総指揮官と協議の上、朝鮮政府の請求に応ぜらるべきこと。

一.帝国兵員を容るべき営舎は、済物浦条約第5款に依り朝鮮政府をして之が設置修繕の責に任ぜしめらるべく、但し若し該政府に於て適当なる設備を為し能わざるときは、兵員駐屯に便宜なる場所なりとも貸与せしめらるべきこと。

一.帝国兵員にして若し清国兵員と同く一地に駐屯するか、若くは又均く朝鮮政府の請求に依り戦地に出陣する場合あるときは、彼此衝突を引き起さざる様十分意を用ひらるべきこと。

一.若し清国官吏より我出兵の理由を問ひたとるときは、天津条約第3款に照らし、朝鮮国内に変乱あり、帝国公使館・領事館及居留帝国臣民の性命財産に危険を及ぼすの虞あるに因て出兵したるものにして、該条約に定むる所に遵び、業已に清国政府え行文知照せりと対えらるべし。
而して若又尚其上に詳問せんとするが如きことあるに於ては、直ちに帝国政府に向て詳問せらるべしとの旨を対えらるべきこと。

一.若し又、京城駐在外国官吏より我出兵の理由を問ふものあるときは、帝国政府は済物浦条約第5款及天津条約第3款に依りて出兵したるものにして、決して他意あることなき旨を保証せらるべきこと。

一.乱民京城に闖入するに当りて、朝鮮政府にて該地に在る各外国公使館・領事館及外国人民を保護する力なきに因り、各国使臣若くは領事より我が衛護を乞ふときは、該地出張の陸軍総指揮官と協議して可及丈の衛護を与へらるべきこと。

一.右の外、茲に列記せざるの事項にして急速を要し、電訓を請わるる暇なきときは、閣下に於て臨機処分せらるべきこと。
尤此場合には、後にて電信又は書信にて速かに事状を具報せらるべきこと。

右及訓令候。
敬具
大鳥が、京城に戻るに当たっての心得について。
もう既にきままに歴史資料集さんのとこの「日清戦争前夜の日本と朝鮮(21)」で取り上げられてるやつですが、一応。

東学党の乱が拡大し、日本公使館や領事館や居留民に危険がある場合、又は清国が派兵する場合には連絡しろ。
その場合には、当然すぐに日本も派兵するはずだ。
尤も、日韓間では済物浦条約の第5款「日本公使館は兵員若干を置き警衛する事。兵営を設置修繕するは、朝鮮国之に任ず。若朝鮮国の兵民律を守る1年の後、日本公使に於て警備を要せずと認むるときは、撤兵するも差支なし。」と、明治18年7月18日高平臨時代理公使の知照による。

この、1885年(明治18年)7月18日高平臨時代理公使の知照については、これまたきままに歴史資料集さんのとこの「日清戦争前夜の日本と朝鮮(12)」で取り上げられていた、アジア歴史資料センター『対韓政策関係雑纂/日韓交渉略史(レファレンスコード:B03030189600)』の35画像目に記載のある、「目下警備を要せずと認め暫く撤回を行う。将来如し事あるに遇うて再び護衛すべきに至りては、仍お当に時に随て兵を派して護衛すべし。此次警備を撤するに因りて誤りて前約を廃滅すと謂うを得ず。」に相当します。
今は警備の必要がないと認めて撤兵するけど、将来もし何かあったら又派兵して護衛するし、今回の撤兵で条約なくなったわけじゃないよ、と。

一方、日清間では、天津条約第3款の手続き「将来朝鮮国若し変乱重大の事件ありて、日中両国或は一国兵を派するを要するときは、応に先づ互に行文知照すべし。」を経て出兵したものと心得てね、と。

ただ、大鳥が着任する前でも、杉村の報告次第では出兵するよ。
また、日本の出兵の目的は公使館・領事館護衛と居留民保護のためだけど、もし朝鮮政府側で東学党の乱鎮圧の援助要請を受けたら、朝鮮出張の日本陸軍総指揮官と協議してその要請に応じてね。

日本兵の営舎は、先ほどの済物浦条約の第5款「兵営を設置修繕するは、朝鮮国之に任ず。」なんで、朝鮮政府に準備させてね。
但し、朝鮮政府が設備を準備できなきゃ、駐屯するのに都合の良い場所を貸与させること。
もし日本兵が清国兵と同じ場所に駐屯したり、朝鮮政府の要請で戦地に出陣する場合があれば、日清間で衝突を起こさないように充分注意してね、と。

もし清国の官吏から日本の出兵理由を聞かれたら、公使館・領事館護衛と居留民保護のための出兵で、天津条約第3款によって既に清国政府に行文知照してるよ。
もし更に詳細に質問するような事があれば、詳細は日本政府に聞いてね、と答えてね、と。
で、もし他の京城駐在外国官吏から出兵理由を聞かれたら、済物浦条約の第5款と天津条約の第3款に基づいて出兵したんで、他意は無いという事を保証する事。

んで、もし乱民が京城に入り込んで、朝鮮政府が各国の公使館や領事館、外国人を保護できないため、各国の使臣や領事が護衛をお願いしてきたら、朝鮮出張の陸軍総指揮官と相談して、出来るだけの護衛を与える事。

その他ここに書いてない事で、電訓を要請する暇もないほど至急な時は、大鳥が臨機応変に対処して、後日電信や書信で報告する事、と。

んー、長くなった。
読めば割と分かる史料は、やっぱポイントだけ解説する方が良いのかなぁ・・・。

で、次が今日最後の史料になります。
1月28日のエントリーで、清国派兵の様子があれば連絡しろと言われた、在芝罘の伊集院領事からの英文電報。
1894年(明治27年)6月4日発電より。

During last night and this afternoon four Chinese men of war have been dispatched to 仁川.
The dispatch of troops not ascertained.
昨夜から本日午後の間に、4隻の清国軍艦が仁川へ急派された。
派兵については確認出来ていない、と。

前回公文による依頼が判明したばかりな状態ですが、流石に清国も動きが早いようで・・・。


ってところで、今日はここまで。



東学党の乱(一)    東学党の乱(十六)    東学党の乱(三十一)  東学党の乱(四十六)
東学党の乱(二)    東学党の乱(十七)    東学党の乱(三十二)  東学党の乱(四十七)
東学党の乱(三)    東学党の乱(十八)    東学党の乱(三十三)  東学党の乱(四十八)
東学党の乱(四)    東学党の乱(十九)    東学党の乱(三十四)  東学党の乱(四十九)
東学党の乱(五)    東学党の乱(二十)    東学党の乱(三十五)  東学党の乱(五十)
東学党の乱(六)    東学党の乱(二十一)  東学党の乱(三十六)  東学党の乱(五十一)
東学党の乱(七)    東学党の乱(二十二)  東学党の乱(三十七)
東学党の乱(八)    東学党の乱(二十三)  東学党の乱(三十八)
東学党の乱(九)    東学党の乱(二十四)  東学党の乱(三十九)
東学党の乱(十)    東学党の乱(二十五)  東学党の乱(四十)
東学党の乱(十一)  東学党の乱(二十六)  東学党の乱(四十一)
東学党の乱(十二)  東学党の乱(二十七)  東学党の乱(四十二)
東学党の乱(十三)  東学党の乱(二十八)  東学党の乱(四十三)
東学党の乱(十四)  東学党の乱(二十九)  東学党の乱(四十四)
東学党の乱(十五)  東学党の乱(三十)    東学党の乱(四十五)


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東学党の乱(五十一)

テーマ:

相変わらず、停滞してたかと思うと一気に話が進み、今度は話が進みすぎて訳が分からないという東学党の乱。
大体こうだろうな、って感じで手一杯。
このいい加減さは、どんどんやる気が失せていきます。(笑)

さて、今回はまた証言。
忠清道から帰ってきた者の聴取書となります。
京城の内田重植領事から臨時代理公使杉村濬への、1894年(明治27年)6月4日付『発第23号』より。

別紙渡辺倉吉よりの聴取書を、参考迄に差出候。
査収相成度候也。
ということで、渡辺倉吉さんの聴取書という事になります。
それでは中身を見ていきましょう。

当国南部地方民擾の件に付、6月1日忠清道清風地方より帰京せし渡辺倉吉よりの聴取書

清風地方は、今回の民撓に付風説百端。
居民何れも安堵の模様なく、目下農業季節なるにも拘らず、何時賊徒押寄せ来るやも知れずとて、避難の準備に忙しく、多くは耕作に取掛り居らず。
伝ふる所に依れば、全羅民擾は其始めは全くの百姓一揆なりしも、中頃より吏胥の輩之に加はり、続て東学党の輩参集加担し、漸次に声焔を増せり。
忠州附近一帯帯方の褓商・負商の輩は、自己の力にて該民撓を鎮圧せんが為め、隊をなし之に赴けり。
故に此辺(清風)一帯地方の商業は全く休業同様にて、市日の如き殊に寂寥を極め居れり。
賊徒の内最も勢力あるは、各地方官属輩にして、賊徒本部吏房(官属の首座を任むるもの)より全国各地方庁吏房に宛回文を発せり。
其主意は、直ちに同盟すべきこと。
各所にありて暴発すべし。
若し然らざれば、直ちに戦地に来投すべき事。
賊境に臨まば直ちに之に応ずべき事等にて、各々同盟せざれば後日屠戮すしとの事なり。
此回文は清風にも来れり。
之が為め附近地方官属等は、何れも暗に軍器糧食等の準備をなし居れり。
未だ戦地に投ぜしものなく頗ぶる傍観の体なりと云ふも、若し賊勢の如何に依りては、各地方官属輩何時暴発せしも計り難し。
忠州の如きは、今にも押寄せ来らんと居民の恐怖甚しく、薄暮に至れば早く城門を閉鎖し、交通を遮断すとのことなり。
清風附近地方農民等の中には、暗に賊の押寄せ来るを待つ者あり。
又恐怖の余り避難の準備をなすものあり。
賊徒本部よりの告示文中には、良民の害せざるべければ安堵覚生すべき旨を以てせりとの事なり。
日本人に対しては何等の評判なしと、各々此際なれば全く危険なしと云ふを得ず、現に同人の如きは清風官属等の忠告に依り帰路に就けりと云ふ。
東学党は、忠州清風附近地方より続々南下するものあり。
又、江原道地方より赴き加はる者あり。
然るに、近頃に至りては江原道内該党人等は、別に新旗幟を道中に飜へし、直ちに京城を衝くべしとの評判なり。
帰路、漢江上流より舟にて降り、其夜楊根(京を距る12里)に宿泊せんとせしに、岸上炬火白盡の如く右往左往人織るが如く頗ぶる喧騷を極め居れり。
聞く所に依るに、全羅地方より火賊千許隊をなし来襲すべしとの事に付、政府に訓令を請ひたる上、見当り次第逮捕せんと斯くは集合し居るとの事なり。
さほど役に立つ報告でも無いねぇ・・・。
まぁ、取りあえず。
忠清道の清風ってのは、前回の地図で忠州のちょっと右側。
現在は、ダム湖に沈んでるような山の中らしい。

で、その清風地方では今回の民乱について様々な風説が流れ、居住民は皆不安。
もう農作業する季節なのに、いつ賊徒が押し寄せてくるか分からないと言って避難の準備に忙しく、多くは農作業に取り掛からない。
聞くところによれば、全羅道での民乱は最初は単なる百姓一揆だったけど、中頃から役人が加わり、続いて東学党が集まって加担し、徐々に勢力拡大。

1月25日のエントリーでも「この騒擾は初めに民が起こして、その後役人が民に加勢したが、守宰が東学の徒と呼称したので、東学の徒はこれを聞いて非常に驚き、遂に官吏と民と三党が力を合わせた。」と、同じような話が見られ、1月4日のエントリーでは「諸邑の吏胥等も転運する事に疲れ、死にものぐるいで人民と一体になって内外呼応して起きたものだ」とかあったわけで、良く「甲午農民戦争は反侵略・反封建云々」なんて聞きますが、そんな単純な話でもなかったようで。

で、忠州附近一帯の褓負商なんかは、自分の力で東学党の乱を鎮圧しようと、隊を作って民乱の起きている場所に赴く。
昨年の12月10日のエントリーなど、褓負商が反民乱側として参加していたのはちょくちょく見かけましたが、忠清道の褓負商も同様なようで。
そのため清風一帯の商業は休業同然となり、市場なんか特に寂寥の感あり、と。

民乱起こしている中で、一番勢力があるのは各地方の官属、と。
やはり役人系・・・。
で、賊徒の本部吏房から全国各地の吏房へ回文が出され、直ぐ味方になって各所で暴発しろ、と。
そうじゃなきゃ戦闘参加ね。
それから賊境に臨んだら直ぐ味方してね。
じゃないと後で殺すから。(゚∀゚)ニッコリ
酷ぇ。(笑)

で、この酷い文は清風にも来ており、このため各地方官属等はみんな密かに武器糧食を準備してるけど、まだ戦地に向かう者はなく傍観状態。
ただ、もし乱民の側が優勢になれば、いつ暴発するか分からんよね、と。

忠州では、今にも賊徒が押し寄せるのではないかと居留民も非常に恐怖し、薄暮になれば早く城門を閉鎖して交通遮断。
清風地方の農民等の中には、密かに賊が来るのを待ってる者から、恐怖の余り避難の準備をする者まで様々。
待ってる人ってのは、多分乱民側に同情的っていうか、地方官の追い出しとか期待してるのかもしれんね。
賊徒の本部からの告示文の中にも、良民には被害与えないから、安心してねと言ってるってのもあるかもね。
日本人に対しては今のところ何の話も無し。
ただ、こういう状況だから全く危険が無いとは言えず、現に渡辺は清風の官属等に忠告を受けて京城に帰ってきた、と。

東学党は、忠州・清風附近の地方から続々南下。
全州落とした東学軍と合流する気かな?
で、江原道方面から来て加わる者もいる、と。
しかし最近では、江原道内の東学党員等は、これらとは別に旗揚げし、直ちに京城を攻めるんじゃないかという評判がある。
で、帰ってくる途中、楊根で全羅道地方から火賊が来るという噂で、非常に騒がしい状態になってたよ、と。

さて、「殺すからね。(゚∀゚)ニッコリ」だけがポイントの史料で終わるのも何なので、最後にもう一つ史料を。(笑)
1894年(明治27年)6月4日発電の英文電報より。

To 大臣:
袁 has sent secretary and has informed me that Corean Government sent him last night official letter asking reinforcement.
I told him through the secretary to suggest Chinese Government about taking proper steps in accordance with 天津 convention.
I suppose from what 袁 told me yesterday that about 1500 Chinese soldiers will immediately start 威海衛.
Will you send Japanese soldiers immediately?
袁世凱は書記官を送ってきて、昨夜朝鮮政府から援兵を求める公文が送られてきたと述べた。
私は書記官を通して袁世凱に、天津條約によって適切な措置を取ることを清国政府に申し入れると述べた。
昨夜袁世凱が私に述べた事からすれば、清国兵約1,500人はすぐに威海衛を出発すると予想される。
至急日本兵を送れないだろうか?と。

予想されていた事が、いよいよ具体化してきましたね。


今日はここまで。



東学党の乱(一)    東学党の乱(十六)    東学党の乱(三十一)  東学党の乱(四十六)
東学党の乱(二)    東学党の乱(十七)    東学党の乱(三十二)  東学党の乱(四十七)
東学党の乱(三)    東学党の乱(十八)    東学党の乱(三十三)  東学党の乱(四十八)
東学党の乱(四)    東学党の乱(十九)    東学党の乱(三十四)  東学党の乱(四十九)
東学党の乱(五)    東学党の乱(二十)    東学党の乱(三十五)  東学党の乱(五十)
東学党の乱(六)    東学党の乱(二十一)  東学党の乱(三十六)
東学党の乱(七)    東学党の乱(二十二)  東学党の乱(三十七)
東学党の乱(八)    東学党の乱(二十三)  東学党の乱(三十八)
東学党の乱(九)    東学党の乱(二十四)  東学党の乱(三十九)
東学党の乱(十)    東学党の乱(二十五)  東学党の乱(四十)
東学党の乱(十一)  東学党の乱(二十六)  東学党の乱(四十一)
東学党の乱(十二)  東学党の乱(二十七)  東学党の乱(四十二)
東学党の乱(十三)  東学党の乱(二十八)  東学党の乱(四十三)
東学党の乱(十四)  東学党の乱(二十九)  東学党の乱(四十四)
東学党の乱(十五)  東学党の乱(三十)    東学党の乱(四十五)


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東学党の乱(五十)

テーマ:

東学党の乱の連載も、50回目に入りました。
つうか、合邦問題の連載より長くなる予感・・・。
まぁ、字を大きくして、分量減らしたんでしょうがないですけどね。

ってことで、前回前々回に取り上げた1894年(明治27年)6月3日付『発第103号(本省)、発第131号(仁川)』ですが、巡辺使李元會とか平壌兵がどうなってんのか、結局良く分かりませんでした。
ってことで、今日紹介する史料で、その辺の事が若干分かります。

それでは、1894年(明治27年)6月3日付『発第73号(本省)、発第134号(京城)、発第135号(仁川)、発第136号(釜山)、発第137号(元山)』から。

昨2日、京城親軍并平壌兵打混ぜて1,400名京城を発し南方に進軍相成は、今朝電信より御報申上候処、其内訳左の通り有之候。

親軍壮衛営2哨260名
同統衛営1哨(砲兵)130名
已上巡辺使李元會に属す。
但し、統衛営兵先発との事。

西営(平壌)5哨650名
但し平壌兵は、本年陰2月中国王儀仗兵として上京中のものなり。
右附属軍餉600石、鋼鍋6,000個携帯。
上各兵の外に、仁川駐在兵70余名と野戦砲1門、弾薬合計7函、海路汽船にて全羅道へ赴く可き命を奉じたる旨、能勢領事宛報告せり。
又、巡辺使李元會氏出張の命を奉じたるに付、国王の教諭と同氏の奏対は、左の如しと云ふ。

巡辺使李元會今朝下直時俯伏榻前上曰梱以外将軍制之郷須自任為教
巡辺使対曰臣之賎齒今満七十而千萬意表授臣以重任臣本無才無能而且古語曰老将無用云矣臣何敢当此重任乎
上曰卿之重望予素飽聞矣卿須裁諒
巡辺使対曰不敢当且曰臣之此行只奉処分而行之而已将以何事処分乎
上默然久之曰自任々々可也
巡辺使対曰不然別有処分後可以奉承之意再三仰達
上又黙然不悦久之只以任意変通之意下教
巡辺使唯唯而退

右の外、今朝来得たる電報左の通り有之候。

陰四月二十九日(六月二日)申時忠清監司電今見恩津隊官手本則招討使自院坪沿道行陳今日到全州接戦云此説亦未可信彼若見逐則必犯恩津防守太疏忽伏悶更加偵探仰達完伯(新任全羅監司)発向恩津

右及御報告候也。
んー、これまで何だかんだ言われてましたが、この史料では巡辺使と平壌兵ほかは、6月2日に京城を発った、と。
内訳は、親軍壮衛営260名、親軍統衛営の砲兵130名、平壌兵650名、仁川駐在兵70余名。
但し、親軍統衛営の砲兵130名は先発している、と。
この先発した統衛営の兵って、1月19日のエントリーで夏服持ってった兵?
何か違う気もするけど、それ以外に報告見当たらないしなぁ。
つうか、合計しても1,400人になりませんが・・・。

その他、物資として兵糧600石と鋼鍋6,000個、野戦砲1門、弾薬合計7函。
何で鍋が6,000個も必要なのか良く分からんのですが。(笑)

で、次の高宗と李元會の会話ですが、ハッキリ言って良く分からず。
基本的に、期待する高宗と才能も能力もない70の老人には重い任務だと言う李元會って感じかな?

最後の電文は6月2日の忠清監司の電報で、今恩津隊官の手本を見るに、招討使は院坪から道に沿って行軍し、今日全州に到達して攻撃するというが、この話は信じる事が出来ない。
もし彼等が逐われれば、東学の徒は必ず恩津を侵犯するはずなのに、守備が手薄だ、と。
んで、完伯(新任全羅監司)は恩津に向けて出発した模様。

1月26日のエントリーで、巡辺使も恩津に兵を進めて東学の徒の進路を塞ぐと言ってるわけで、どうやら陥落した全州の次のポイントとなる場所は、恩津なようです。
恩津は、昨年の12月30日のエントリーでも沃川と共に要害として挙げられていましたので、この要害で取りあえず東学軍の北上を防ぐというのが、全州陥落後の基本構想なんでしょう。

さて、次の史料。
再び清国出兵の話。
1894年(明治27年)6月3日付『発第18号』より。

当国乱民益々猖獗に至り、全羅道と忠清道に及ばんとするに付いて、当国政府は彌々乱民鎮撫方を清国政府に請求するの評議最中に有之候由。
然るに、既に清国政府に於て其請求に応じ出兵致候事に相成候はば、我に於て最先之を承知致し度候は最も必要之義有之候間、右探聞方に関し別紙の通り在天津荒川領事併に在芝罘伊集院領事へ依頼申遣し置候間、右御承知にて不取敢申進候也。

別紙は、天津芝罘行19、20号公信。
乱民の勢いは益々激しくなり、全羅道と忠清道にその勢力が拡大されようとしている事について、朝鮮政府はいよいよこの鎮圧を清国政府にお願いする評議の最中だ、と。
しかし、そのお願いに清国が応じて出兵するような事になれば、日本は最優先でこれを探知するのが当然最重要なわけで、天津の荒川領事と芝罘の伊集院領事に、別紙の通り探らせてね、と。

1月24日のエントリーで「こいつ、誰よ?( ´H`)y-~~」状態だった「荒川」は、天津領事だったんですね。(笑)

で、その別紙。
1894年(明治27年)6月3日付『発第19号(天津)、発第20号(芝罘)』を見ていきましょう。

先月来、全羅・忠清両道に蜂起したる乱民は、其勢熾にして地方の兵丁のみにては鎮撫致兼たるのみならず、益々猖獗を極め、官吏を逐ひ城邑を屠る等、侮どり難き様像有之候。
本官が聞得たる報道に拠れば、乱民の占拠若くは橫行したる市邑は、全羅道に在りては泰仁・古阜に始まり、扶安、金溝、井邑、高敞、茂長、羅州、咸平、務安、霊光等の各邑。
忠清道に在りては、懐徳、鎮岑、青山、報恩、沃川、文義等の各邑に有之候得共、全羅・忠清両道の凡そ3分1に相跨り候に付、当国に取りては実に容易ならざる変乱に有之。
加之近年其他の各道とも、所在地方官の虐政に苦み、政府を怨み、動もすれば民擾を発せんとする折柄なれば、全忠両道乱党の勢力如何に因りては、彼等起て之に応ずるやも難計と存候。
故に当政府にても一方ならざる心痛にて、先きには当京城壮衛営より800名を征討の為め全州に差遣はし、江華兵400名を木浦より上陸せしめ、前後挟撃の手筈と相見へ候処、意外にも長城附近の地に於て京軍は乱徒の為めに敗られ、士官1名、兵300名、大砲2門及び小銃夥夥多掠奪せられ、遂に全州も彼徒の為めに陥しられ候。
右概略は、別紙にて御承知相成度候。

就ては、当政府の驚愕一方ならず、今般清国政府に向て援兵を請求したる由に有之。
其に付ては、清政府は果して其請求を容れ、送兵に及び候哉否(本日袁氏の電話には、威海衛より出兵するやの都合に有之由)は、我に於て知悉する事を要し候間、右充分御注意の上愈々送兵の模様有之候はば、北京公使外務省竝に当館へ御電報相成度、此段御依頼旁申進候也。
何か、非常にデジャヴのある文面だったのでちょっと調べてみたら、昨年の12月29日のエントリーで、杉村から小村への1894年(明治27年)5月23日付『発第13号』と、東学の勢力的に井邑と全州くらいしか違ってない・・・。(笑)
兎も角、その時同様に、全州の色変更と恩津・木浦等を追加した、地図ver3を御覧下さい。

東学党の乱地図ver3
(クリックで拡大)


ってことで、防衛ラインが大体分かりますね。

後半部分はさすがに昨年の12月29日のエントリーから変わってますね。
壮衛営より更に800名を全州へ向かわせ、平壌兵は木浦上陸で挟撃予定だったものの、招討軍が1月24日のエントリーでも報告があったとおり、士官1名・兵300名死亡、大砲2門及び小銃多数を奪われるという大敗を喫し、全州まで奪われる始末、と。

つうか、今日の冒頭で「その辺の事が若干分かります」とか言ったけど、人数は確かに分かりました。
でも、何時、どういう形で援軍出されてんのよ。
サッパリ分かんねぇーよ!( `H´)y-~~

ってことで、勿論官軍大敗と全州陥落が朝鮮政府に与えた驚愕は一方ならず、とうとう清国に援軍をお願いするらしい。
清国への出兵依頼については、1月24日のエントリー1月25日のエントリーでも触れられていましたが、まだ確報は無いわけで、清国がこれを受け入れて派兵するのかどうかについては、在朝鮮公使や外務省なんかは当然知る必要がある、と。
そういうわけで、派兵の様子があれば北京公使と外務省と朝鮮公使に電報してね。
ちなみに、袁世凱の今日の電報では、威海衛から出兵する予定らしいよ、と。

種々の報告にも混乱が見られますが、それを見ているウリにも混乱が見られます。(笑)


ってところで、今日はここまで。



東学党の乱(一)    東学党の乱(十六)    東学党の乱(三十一)  東学党の乱(四十六)
東学党の乱(二)    東学党の乱(十七)    東学党の乱(三十二)  東学党の乱(四十七)
東学党の乱(三)    東学党の乱(十八)    東学党の乱(三十三)  東学党の乱(四十八)
東学党の乱(四)    東学党の乱(十九)    東学党の乱(三十四)  東学党の乱(四十九)
東学党の乱(五)    東学党の乱(二十)    東学党の乱(三十五)
東学党の乱(六)    東学党の乱(二十一)  東学党の乱(三十六)
東学党の乱(七)    東学党の乱(二十二)  東学党の乱(三十七)
東学党の乱(八)    東学党の乱(二十三)  東学党の乱(三十八)
東学党の乱(九)    東学党の乱(二十四)  東学党の乱(三十九)
東学党の乱(十)    東学党の乱(二十五)  東学党の乱(四十)
東学党の乱(十一)  東学党の乱(二十六)  東学党の乱(四十一)
東学党の乱(十二)  東学党の乱(二十七)  東学党の乱(四十二)
東学党の乱(十三)  東学党の乱(二十八)  東学党の乱(四十三)
東学党の乱(十四)  東学党の乱(二十九)  東学党の乱(四十四)
東学党の乱(十五)  東学党の乱(三十)    東学党の乱(四十五)


東学党の乱(四十九)

テーマ:

前回途中で終わってしまった朝鮮漢文の史料。
何が起きているのか、かなり分かりづらいんですが、一応今日も頑張って見ていきたいと思います。(笑)

それでは、1894年(明治27年)6月3日付『発第103号(本省)、発第131号(仁川)』の5)の続きから。

一.向自以府発関文于湖南列邑添土兵于招討使営矣賊已知機微偽造政府関文印押毫無差錯以渠徒数百名佯作某邑土兵様附招討使営而暗通機密接戦時為内応以此大敗云此必吏輩通謀也
5)の6つめになります。
この前政府は湖南の諸邑に公文を送り、招討使の陣営に地方兵をさらに増員しようとしたが、東学軍はそれを察知して政府の公文をハンコまで少しの差もないほど偽造し、東学軍数百名を某邑の地方兵であるかのように偽装し、招討使の陣営近づけた。
そして密かに機密を報せ、戦闘の際には内応したためこの大敗となったという。
これは、必ず通謀した役人がいるだろう、と。

うむ。
1月21日のエントリーで津沼の言っていた、鉄砲隊50人の話と符合しますな。

一.招討使在於霊光当初以七百名兵丁分三隊而送二隊兵於長城者致敗招討使之電報及啓文阻絶之由無他故也乱徒以絶中路前後而不得通渉而方留駐於霊光勢孤力窮自上密々秘送輪船一隻於霊光使招討使猝然下隔於全州之北而北事十分秘密恵堂亦不知耳(恵堂は閔泳駿を指す)
7つめ。
招討使は霊光にあって、最初に700人の兵を3隊に分け、2隊を長城に送ったが、これは敗れるに至った。
招討使の電報と啓文が途切れたのは、他の理由があるわけではなく、乱徒が前後の中間を絶って通じなくしたからだ、かな?
で、招討使は今霊光に駐屯して孤立し行き詰まったため、輪船1隻で密かに霊光から脱出し、あせって全州の北で東学軍を阻む事にしたが、これについては十分に秘密が守られたので閔泳駿でも知らない、と。

つうか、洪啓薫が死ぬのは閔妃殺害の時だって知ってるのに、何故か大敗したときに死んでると、勝手に思いこんでた。(笑)

一.新差完伯抵到公州不能前進(新任全羅監司金鶴鎮氏を指す)
8つめ。
新任の全羅監司金鶴鎮は公州に到着したものの、これ以上進めません、と。
ああ、そうだ。
全州陥落時って、監司いなかったんだ。
つうか、それなのに全州空っぽにしてたんだなぁ・・・。

一.沁営(江華島営)兵丁留駐於群山而只為観望云
9番目。
江華兵は群山に駐屯しているが、単に傍観してるだけという、と。
1月20日のエントリーでは、群山から法聖浦に向かった話があったんだけどなぁ・・・。

一.巡辺使李元會領西営(平安監営)兵丁五哨来晩将発云西営兵丁衣次布木各一匹銭一貫領給云探偵者及李元會七十老将也雖堪重任而以上哨兵何以抵歟
10番。
巡辺使李元會は、平壌兵500名を率いて明日の晩に出発するという。
次の「衣次」が分かんないけど、平壌兵はそれと木綿布を各1匹と銭1貫を支給したという。 で、探偵者と李元會は70歳の老将で重任に堪えられるけど、哨兵は無理、かな?
結構意味不明。(笑)

一.無軍糧之故忠清道内浦米上納京司者移劃于巡辺使営京軍与沁兵皆節節制云
11番目。
兵糧が無いから、京司者が上納する忠清道内浦米を巡辺使営に移し、招討軍と江華兵は皆節制しているという、か。
つうか、巡辺使が現状どこに居るのか、サッパリ分からないんですが・・・。(笑)

一.昨日自京電局派送電局主事一員載鐵絲及電機具下去以為行中通報事
これが、5)の最後になります。
6月2日に京城電局から電局主事を1人派遣して鉄糸と電機具を送ったのは、行中の通報のためだ、と。
通信途絶してる部分に対してかな?
それとも偵察の話なのかな?
京城電局から電局主事が派遣されたんだから、多分前者の通信途絶している部分に関して、何かするために行ったと思うんだけど。

で、次の項6)で1894年(明治27年)6月3日付『発第103号(本省)、発第131号(仁川)』は最後になります。

6)甲午四月二十七日(我五月三十一日)国王殿下は八道に下の勅諭を下す。
伝曰惟予宵旰憂勒為民一事而民愈困瘁所在騷訛此曷故也蓋其為弊之端予亦有種々入聞者職由於貪官汚之吏不克字恤反以侵暴令不得安業迫而致此宜其隨聞黜斥無俾留一日添一害若甚最無良者以当律痛懲庸謝民心豪右之武断有或畏於官長矜彼無辜莫以資生宜其操而戢之抑其強而扶其弱使窮蔀編戸免有棲遑其或小民愚頑群聚作拏於墮壊名分則亦宜其禁飭調制且夫国結所重雖一把一束有未可率爾増加者而亦或有朝家所不知者擅自加斂一結之多或倍蓰於原摠農民終歳作苦甁罌無儲雖遭楽歳未足租税而蕩析仳離為官而為此者非直曰虐民也其果知有国法者乎宜其到底査櫛原結外無或濫取仍令覈論其犯科之罪所謂無名雑税之許多討索者一物入市色目焦棼一船過境港聞槇錯商民倶病貨源耗竭貿遷窒碍日益刁騰宜其一切痛革凡此諸般民瘼為守宰者不念予為民苦心抵願作肥己之私計思之寧欲無言而其所以按廉而周察者旬宣之責也目下民情嗷々鬧括不待採々伝聞浪藉自不可掩而迄茲寥々一未有登聞是豈対揚之義哉其為慨歎更有余於列倅而亦惟在廟堂糾警而董飭之其不職之大懲創為弊之痛矯革可以直断而稟裁宜亟而勿徐也并将此意厳飭各道
5月31日に下された高宗の勅諭。
以下、超訳で。

貪官汚吏のせいでこういう状況になったのは知ってるし、厳罰に処したりして民に謝んないと駄目だよね。
苛酷な税の取り立てしてるヤツもいるから、そういうの徹底的に調査するよん。
また、名目の無い雑税を色々取れば、商人困るんだから止めれ。
民に苦痛を与えるこういう仕業は、民のために苦心する私の心を考えず、自分の私腹を肥やそうとしてるだけ。
職務をまともに遂行できないヤツは厳罰にして、弊害は徹底的に直すから、ちゃっちゃとやれ。

んー、我ながら凄い超訳だ・・・。

っていうかさ、こういう詔勅、明らかに出すの遅くね?(笑)


今日はこれまで。



東学党の乱(一)    東学党の乱(十六)    東学党の乱(三十一)  東学党の乱(四十六)
東学党の乱(二)    東学党の乱(十七)    東学党の乱(三十二)  東学党の乱(四十七)
東学党の乱(三)    東学党の乱(十八)    東学党の乱(三十三)  東学党の乱(四十八)
東学党の乱(四)    東学党の乱(十九)    東学党の乱(三十四)
東学党の乱(五)    東学党の乱(二十)    東学党の乱(三十五)
東学党の乱(六)    東学党の乱(二十一)  東学党の乱(三十六)
東学党の乱(七)    東学党の乱(二十二)  東学党の乱(三十七)
東学党の乱(八)    東学党の乱(二十三)  東学党の乱(三十八)
東学党の乱(九)    東学党の乱(二十四)  東学党の乱(三十九)
東学党の乱(十)    東学党の乱(二十五)  東学党の乱(四十)
東学党の乱(十一)  東学党の乱(二十六)  東学党の乱(四十一)
東学党の乱(十二)  東学党の乱(二十七)  東学党の乱(四十二)
東学党の乱(十三)  東学党の乱(二十八)  東学党の乱(四十三)
東学党の乱(十四)  東学党の乱(二十九)  東学党の乱(四十四)
東学党の乱(十五)  東学党の乱(三十)    東学党の乱(四十五)


東学党の乱(四十八)

テーマ:

さて。
今日はまたもや苦痛な朝鮮漢文史料に戻っちゃいます・・・。_| ̄|○
そういえば、何でこれまで東学党の乱に手を出さなかったかと言うと、英文電報と朝鮮漢文読むの嫌だったからだというのを、思い出してしまいました・・・。
ま、しょうがないわな。

ってことで、今日の史料の内容は大したこと無いんですが、長いので分割しながら見ていきます。
1894年(明治27年)6月3日付『発第103号(本省)、発第131号(仁川)』より。

1)陰四月二十六日(我五月三十日)忠清道監司電報
東徒次次解散矣逢変之班家発通文会集家童数百名逐殺東学且沖火於東徒家而数日之内東徒数万名会合更爲起鬧伏悶
5月30日の忠清道の監司の電報。
つうか、今更気付いたけど、全羅監司が居なくても他の道の監司は居るわけで、そりゃ報告あるよなぁ・・・。(笑)

兎も角、本文の方。
東学の徒は順次解散していったが、事件のあった両班の家では通文を発し、家童数百名を集めて東学の徒を追いかけて殺し、且つ東学の徒の家に放火したため、数日のうちに東学の徒数万名が集まり更に騒ぎを起した、かな?
まぁ、どっちもどっちなわけだけど、折角一旦鎮まったのにほじくり返すなよなぁ。(笑)

2)同四月二十七日(我五月三十一日)慶尚道監司電報
向殺東学魁首白弘錫矣東徒数万名闖入晋州大鬧城中云可悶
続いては、5月31日の慶尚道の監司の電報。
先日、東学の首魁白弘錫を殺害したら、東学の徒数万名が晋州に闖入し大きい騷乱を起こした。
こっちも割と当然の帰結。(笑)
というか、そんな事するぐらいなら、奪還しようなどとは考えなかったんだろうか?

3)同二十八日(我六月一日)忠清道清州の電報
東徒更聚報恩将至滔没急請京軍下送
3つめは、6月1日の忠清道清州からの電報。
東学の徒が更に集まって、報恩が陥落しそうなので、至急京軍を送って下さい~。
頼みです~。

4)同二十九日(我六月二日)忠清道監司電報
公州以下不通消息而舊完伯金文鉉避身歩来于本営聞其所伝公州以下非国家所有云
4つめ。
6月2日の忠清道の監司の電報。
公州以下の消息が不通だったが、旧全羅監司の金文鉉が本営まで徒歩で避難してきた。
彼の言うには、公州以下はもう国家の所有ではない、と。
要するに、公州以下は政府が機能して居らず、東学党に占拠されてますって事だろうねぇ。

5)六月二日接到該報告
一.昨日未時全州監司電報以為賊臨城外男女老少民見機逃避一営空虚事勢急迫若更無電報下燭民城之不保矣昨日未時以後一無電報自京電局屡次電送未有一答可知完営之已失云耳
こっから暫くは、6月2日に到着した各種報告となります。
まずは、6月1日の全州監司の電報で「賊が城外に迫り、老若男女は問わず機会を見つけて逃亡しており、営内は空っぽになり、事態は切迫している。もし更に電報がなければ、民と城を維持できなかったと思ってください」と言ってたけど、それ以降一切電報も無く、京城電信局から何度も電報を送ったけども返事がないため、全羅監営はもう陥落したのだろう、と。
うん。
陥落した。( ´H`)y-~~

次。

一.東徒昨入全州監営而前完伯出避山寺而以慶基殿奉太祖影幀故派送礼曹堂上奉審以来也全州電局則為東徒所撓不得通信自錦営設寘負商牌至于全州以歩撥急遞至于公州電通也
東学の徒が昨日全州監営に入ったが、監司は山寺に身を避けた。
その慶基殿には太祖の肖像画が奉じられており、そのため礼曹(議政府の儀礼関係の部署)の堂上官(上級官僚)を派遣して・・・奉審以来って何だろう?
何か、全く危機感の無い事的な雰囲気はありますが・・・。
ちなみに、慶基殿については、最初から李成桂(太祖)の肖像画を安置するために、1410年に建てられたものらしく、韓国の史跡339号にも指定されているようです。

で、全州電信局は東学の徒のため通信できないので、錦営に負商牌を設置して全州に至らせ、徒歩に入れ替えて公州で通信する事にした、かな?
んー、難しいけど、要するに不通区間を徒歩運搬で補ったって事だろうなぁ。

一.巡辺使明暁進兵向于恩津以為防禦彼徒之前路云耳
3つめ。
巡辺使は明日夜明け恩津に兵を進め、東学の徒の進路を塞ぐと言った、と。
1月17日のエントリーでは、巡辺使は李元會とされていましたが、それで良いのかな?

一.錦伯電報連入道内東徒処処蜂起列邑官属多告退于官長而去宰拱手而已青山県数千又屯聚云(錦伯は忠清道監司を指す)
4番目が、忠清道監司の報告では、道内に次々に入ってきた東学の徒がところどころで蜂起し、各邑の官属の多くは官長に退くことを告げて去ったが・・・宰って何だ?
宰は手を拱いているだけで、既に青山県に数千人がまた集まっているという、と。
うー、意味わかんねぇ。
手を拱いているって事は、宰って官長か?
で、青山県に集まってるのは、やっぱり東学で良いのかな?

一.此擾初起於民而吏与民符同守宰称以東徒故東徒聞而驚懼遂附吏民三党合勢其中吏擾最可畏多謀知事慣熟山川道路形便府庫銭穀故也
5つめ。
この騒擾は初めに民が起こして、その後役人が民に加勢したが、守宰が東学の徒と呼称したので、東学の徒はこれを聞いて非常に驚き、遂に官吏と民と三党が力を合わせた。
で、その中で官吏の騒擾は、謀計も多く、地形や府庫の銭穀などを熟知しているため、最も恐ろしい、と。

つうか、これだと東学の参加は政府側の自爆じゃんかよ・・・。_| ̄|○


ってところで、史料は途中ですが、今日はここまで。



東学党の乱(一)    東学党の乱(十六)    東学党の乱(三十一)  東学党の乱(四十六)
東学党の乱(二)    東学党の乱(十七)    東学党の乱(三十二)  東学党の乱(四十七)
東学党の乱(三)    東学党の乱(十八)    東学党の乱(三十三)
東学党の乱(四)    東学党の乱(十九)    東学党の乱(三十四)
東学党の乱(五)    東学党の乱(二十)    東学党の乱(三十五)
東学党の乱(六)    東学党の乱(二十一)  東学党の乱(三十六)
東学党の乱(七)    東学党の乱(二十二)  東学党の乱(三十七)
東学党の乱(八)    東学党の乱(二十三)  東学党の乱(三十八)
東学党の乱(九)    東学党の乱(二十四)  東学党の乱(三十九)
東学党の乱(十)    東学党の乱(二十五)  東学党の乱(四十)
東学党の乱(十一)  東学党の乱(二十六)  東学党の乱(四十一)
東学党の乱(十二)  東学党の乱(二十七)  東学党の乱(四十二)
東学党の乱(十三)  東学党の乱(二十八)  東学党の乱(四十三)
東学党の乱(十四)  東学党の乱(二十九)  東学党の乱(四十四)
東学党の乱(十五)  東学党の乱(三十)    東学党の乱(四十五)


東学党の乱(四十七)

テーマ:

さて。
前回の最後の史料で日本の出兵の話が出てきましたが、その閣議決定に前後して京城へもこの話は伝えられます。
1894年(明治27年)6月2日発電より。

Strictly confidential.
In case 東学党 revolt assume such magnitude as to endanger safety of our residents or in case of attitude of China sends reinforcement, it may become necessary for Japan also to send Japanese soldiers for the protection of our legation, consulates and residents.
Therefore do your utmost to telegraph from time to time most promptly every movement of the revolt as well as Chinese attitude.
Has 袁世凱 told you personally that Corean Government asked for Chinese reinforcement?
Telegraph also how you answered him, what official announcement 袁世凱 propose to do about Corean request.
極秘事項。
もし東学党の乱が日本人居留民達の安全を脅かすほどの規模になるか、あるいは清国が援軍を送る態度に出た場合、日本もまた公使館や領事館、居留民保護のために、日本軍の出兵が必要になるかも知れない。
従って、清国の態度と同様に反乱軍の全ての動きを即座に随時送るよう、最善を尽くす事。

袁世凱は、朝鮮政府が清の援軍を求めたと貴下に直接言ったのか?
また、それに対して貴下がどのように答え、朝鮮政府の要求に袁世凱はどのような公式発表をするつもりなのか送れ、と。
ということで、反乱軍の動きも知らせろ、と。

これを受けてかどうかは不明ですが、6月2日付けで全羅道民乱について、ある程度まとまった報告が出されます。
1894年(明治27年)6月2日付『発第71号(陸奥外務大臣)、発第17号(北京 小村臨時代理公使)』より。

当国全羅道に於ける乱民の動静は、前日来追々及稟報置候通り、乱徒は去月19日頃霊光に押寄せ、漸次南下せんとする勢を示せしに因り、招討使は同22日全州を出で、乱徒の聚合し居る霊光に向て進発せるに、乱徒は又官軍の来らざるに先だち咸平に押寄せたり。
先是招討使の請に応じ、去月21日江華兵450名を水路群山へ派遣せるに、此時乱徒南に向て退軍せしに因り、右援兵は再び水路より南の方木浦に出て、招討使の兵は前後挟撃の方略を取らんとしたるに、乱徒は又去月28日を以て咸平より道を転じて、羅州を経て長城に向て進みたり。
然るに、招討使の兵は最初井邑に留陣し、之より移りて興徳に駐り、咸平・霊光の賊を押へ居りたるに、乱徒道を転じて北上するを聞き、兵を進めて長城の月坪に至るや忽ち之と相逢ひ、茲に始めて接戦し、乱徒の為め大に敗られ、士官1名、兵300名を亡ひ、剩さへ大砲2門と数多の小銃を奪はれたりと。
此に於て乱徒勢に乗じ、去月31日直ちに空虚の全州を衝き、竟に之を陥れたりとの報知を得候。
就ては、従来騒乱地の動静は、一に全州の電信局より通信し来りし処、今般同地乱徒の為めに陥れられた為め、一昨日来電報類不通に成り、爾後の模様更に不可分事と相成候。
右に関する詳細の箋は、別紙報告并に前号報告等にて前後御参閲相成度、此段不取敢及具報候也。

追て本日入手の報告に拠れば、閔泳駿氏は今般全州覆没の急報に付ては、諱て之を国王に奏達せず、只だ京軍300名戦没の事丈を奏じたるのみなれば、国王右の急報の干今御承知無之由云々。
これまでの報告通り、東学軍は5月19日頃霊光に押し寄せ、その後南下しようとする勢いを見せたため、招討使洪啓薫は5月22日に全州を出発し霊光へ。
他の隊は兎も角、洪啓薫が5月22日に全州を出発したのはほぼ確定。
で、これに対して東学軍は招討軍の来る前に咸平へ。

一方で、昨年の12月28日のエントリーで出発した江華兵については、東学軍が南に向かっている事から水路で木浦に行き、挟撃しようとするんですね。
1月20日のエントリーでの漢陽号機関手の徳永正一の証言だと、江華兵が送られたのは法聖浦でしたが。
そんな中で東学軍は進路を変え、5月28日に咸平から羅州経由で長城に向かう。

招討軍は最初井邑に陣を構えていたけど、その情報を得て興徳に移動し咸平・霊光に睨みをきかせていたところ、東学軍が北上する情報を得て兵を進める。
んー、改めて見ても、振り回されっぱなしだなぁ・・・。

こうして、招討軍が長城の月坪に差しかかったところで東学軍と遭遇。
激突。
そして大敗。(笑)
士官1名と300名の兵が死亡。
大砲2門と多数の小銃を奪われた、と。
というか、遭遇戦っぽいですねぇ。

で、この勝利によって東学軍は勢いに乗り、5月31日に空っぽの全州を攻めて陥落させたとの情報を得た、と。
そんなわけで、これまで全羅道の騒乱の模様は、まず全州の電信局からの通信に拠っていたものの、今回東学軍の全州陥落により電信も不通となり、その後の様子はサッパリ分からない状態に。
次の全州陥落に関する詳細とされる別紙報告は、残念ながら今のところ確認できていません。

で、追伸として、閔泳駿は今回の全州陥落について高宗に報告せず、単に招討軍300名が戦没した事だけを報告しただけなので、高宗は今回の全州陥落については、まだ知らないらしい、と。
つうか、何考えてんだ、このおっさん?
いや、全州陥落したって聞けば、高宗がビビッて「播遷する!」とか言い出すからかな?(笑)
それとも、他に理由があったりして・・・。( ´H`)y-~~

もう一つ求められていた、清国の援軍等に関しては、6月3日付けで英文電報が出されています。
1894年(明治27年)6月3日発電より。

To 大臣:
My telegram of 6月1日 about Chinese reinforcement based on what 袁世凱 told 鄭.
But today 袁 told me personally that Corean Government asked for reinforcement as soon as 全州 fell although official letter of request not yet received.
He said that he has telegraphed already Chinese Government on the matter and that Chinese Government would comply with the request whenever he would telegraph anew on the receipt of the letter.
He added that he would ask for the dispatch of soldiers if self-protection might become necessary irrespective of request.
But 大院君 told 国分 that the letter was made yesterday and it might have been sent to 袁.
I am therefore anxiously searching whether it was sent or not.
Russian Minister to Corea left this morning for China.
前回の袁世凱に朝鮮政府が援軍を求めたという6月1日付けの電文は、袁世凱が鄭に言った言葉に依拠している、と。
この鄭は、昨年の12月13日のエントリーにも出てきた、鄭書記官の事かな?

しかし、今日袁世凱は私に個人的に、全州が陥落するやいなや韓国政府から援軍要請があったが、まだ公文での依頼は受けていないと述べた、と。
彼は既にその問題について清国政府へ電文を送り、また、改めて公文を受けて打電したときは、清国政府はすぐにその要請に応じるだろうと言い、それに加えて彼は、もし自己防衛のために必要になれば、朝鮮政府の要請に関係なく派兵を要請すると言った。

しかし大院君が国分に言うには、その公文は昨日作製され、もう袁世凱に送ったかも知れない、と。
そのため、発送したかどうかについて調査中。
で、在朝鮮ロシア公使は、今朝清国へ出発した、と。

官軍惨敗と全州陥落って、朝鮮政府だけでなく清国と日本にも大きな影響与えてるのね・・・。


ってことで、今日はこれまで。



東学党の乱(一)    東学党の乱(十六)    東学党の乱(三十一)  東学党の乱(四十六)
東学党の乱(二)    東学党の乱(十七)    東学党の乱(三十二)
東学党の乱(三)    東学党の乱(十八)    東学党の乱(三十三)
東学党の乱(四)    東学党の乱(十九)    東学党の乱(三十四)
東学党の乱(五)    東学党の乱(二十)    東学党の乱(三十五)
東学党の乱(六)    東学党の乱(二十一)  東学党の乱(三十六)
東学党の乱(七)    東学党の乱(二十二)  東学党の乱(三十七)
東学党の乱(八)    東学党の乱(二十三)  東学党の乱(三十八)
東学党の乱(九)    東学党の乱(二十四)  東学党の乱(三十九)
東学党の乱(十)    東学党の乱(二十五)  東学党の乱(四十)
東学党の乱(十一)  東学党の乱(二十六)  東学党の乱(四十一)
東学党の乱(十二)  東学党の乱(二十七)  東学党の乱(四十二)
東学党の乱(十三)  東学党の乱(二十八)  東学党の乱(四十三)
東学党の乱(十四)  東学党の乱(二十九)  東学党の乱(四十四)
東学党の乱(十五)  東学党の乱(三十)    東学党の乱(四十五)


東学党の乱(四十六)

テーマ:

1月16日のエントリーから1月19日のエントリーくらいまで、官軍惨敗や全州陥落について結構話が出ていました。
その後、漢陽号機関手の徳永正一の聞取書と、津沼米作の口述を見てきました。

で、その間の英文電報をすっかり取り上げるの忘れてまして・・・。
ご免なさい。_| ̄|○
いや、これまで英文電報って、「筑紫」や「大和」に関する比較的どうでも良い史料だったんで、シカトぶっこいてきたんですが、流石に招討軍敗北や全州陥落前後は、英文電報でも重要な話が出てくるのをすっかり見落としてました。

ってことで、今日はその英文電報を。
まずは、1894年(明治27年)6月1日発電より。

To 大臣:
Am informed that 京城 troops have been bitterly defeated near 長城 and that rebels have advanced to suburbs of 全州.
平壌 soldiers will be sent in a few days for reinforcement.
京城部隊、つまり招討軍は長城近くで惨敗し、反乱軍は全州郊外まで進出したという。
で、平壌兵が増員のために数日中に派遣されるはずだ、と。
平壌兵については、1月17日のエントリー1月19日のエントリーで見られましたね。

勿論敗戦に続いて全州も陥落するわけで、この続報にあたります。
1894年(明治27年)6月1日発電より。

To 大臣:
全州 fell into hands of rebels yesterday.
袁世凱 said Corean Government asked Chinese reinforcement.
See 機密第63号信 dated 5月22日.
全州は昨日反逆者の手に落ちた。
袁世凱は、朝鮮政府が清国の援軍について尋ねてきたと言った。
つうことで、5月22日付の機密第63号見てね、と。

この5月22日付『機密第63号』は見つけられていないんですが、日付と番号的に見れば、12月27日のエントリーの1894年(明治27年)5月22日付『発第61号』「清国に援兵を乞の議は中止の件」で、清国の援兵が中止となった後のものって事になるんですがね。
文脈から見れば、今回は中止になったから良いけど、もし清国が出兵したらどうすれば良いという文か、袁世凱と閔泳駿の密約の話でしょうなぁ。

んで、もう一方は小村への発電。
1894年(明治27年)6月1日発電より。

京城 troops bitterly defeated near 長城.
全州 fell into hands of rebels yesterday.
Corean Government asked Chinese reinforcement.
Inform this 荒川 and watch carefully.
京城兵は長城近くで惨敗し、全州は昨日反逆者の手に落ちた。
朝鮮政府が清国の援軍について尋ねたので、荒川に言って注意深く観察すること、と。
荒川って誰なのか良く分かりませんが。(笑)

ということで、恐らくはこれらの報告を受けて、居留民保護のための出兵の方針が決められます。
本当に久しぶりのアジア歴史資料センターから、『公文別録・内閣・明治十九年~大正元年・第一巻・明治十九年~大正元年/朝鮮国内乱ニ関シ兵員派遣ニ関スル方針ノ件(レファレンスコード:A03023061500)』から。

朝鮮国内乱に関し、兵員派遣に関する方針
右、御覧に供す。
明治27年6月6日
内閣総理大臣伯爵伊藤博文


明治27年6月2日

朝鮮国乱民内に起り、京城駐在公使館よりの来電に拠るに、官兵頻に敗れ乱民益々猖獗を窮むるの勢ありと云。
将来乱民京城又は其他の日本人居留地に侵入すること無きを保ち難く、従て公使館及国民を保護する為に兵員を派遣するの必要あり。

天津条約第3款に依るに、朝鮮国変乱又は重大の事件あるに当り、日支両国又は一国兵を派するときは行文知照すべしとの明文あり。
故に出兵に当り、将来或は清国と往復関係すべきの時機を生ずるも料るべからずと雖、今度の事は急速の事変に係り、我が兵を以て我が国民を保護するを怠るべからざるが為に、清国と連合派兵するを待たず、条約の明文に従い行文知照し、直ちに出兵するを適当とす。

京城駐在公使館杉村書記官よりの来電に依れば、朝鮮政府は已に応援を清国に求めたりと云えり。
清国のこれに応じたるや否やは未だ報知を得ずと雖、将来清国も其の兵員を派遣し、両国の軍隊或は連合の働を為し、或は朝鮮政府の要求に由り臨機に応援防護するの必要生ずるも亦料るべからず、此れ亦予め算画の中に置かざるべからず。

今は更に詳報を得るを待たず、先ず第一に公使館及国民を保護するの必要を主とし、機先に後れざる為に及ぶだけ速に出兵の準備を為すべし。
閣議決定が6月2日で奏上が6月6日。
割と、清が出兵決定する前から出兵する事になってたんですね。

で、中身。
東学党の乱について杉村等からの来電で、官軍が惨敗し乱民は益々勢いを強めていると言う。
将来的に乱民が京城やその他日本人居留地に侵入する事が無いとは言えず、そのため公使館及び日本人保護のために出兵の必要あり、と。

で、天津条約の第3款では、朝鮮国に変乱や重大な事件があった時に、日清両国又は一方が派兵するときには知らせろという明文規定があるため、出兵にあたって清国と文書の遣り取り等あるかもしれないけど、今回は事態が急変したわけで、日本国民を保護する事を怠る事もできないため、清国と一緒に派兵するのを待たずに連絡してすぐに出兵するのが適当だ、と。

で、杉村からの来電では、朝鮮政府はすでに清国に応援を求めた模様であり、清国がそれに応じたのかどうかはまだ不明だけど、将来的に清国も派兵して、両国の軍隊があるいは連合して働いたり、あるいは朝鮮政府の要求によって臨機応変に応援や防護する必要が生じるかもしれないため、これも計画の中に置かなければならない。
今は更に詳しい情報が入るのを待たずに、まず第一に公使館と国民保護を最優先とし、何か起きる前に出来るだけ早く出兵の準備を、と。

ま、壬午事変なり甲申事変なりの前例が有るのは、何度も指摘してきた通りですからねぇ。


ってところで、今日はここまで。



東学党の乱(一)    東学党の乱(十六)    東学党の乱(三十一)
東学党の乱(二)    東学党の乱(十七)    東学党の乱(三十二)
東学党の乱(三)    東学党の乱(十八)    東学党の乱(三十三)
東学党の乱(四)    東学党の乱(十九)    東学党の乱(三十四)
東学党の乱(五)    東学党の乱(二十)    東学党の乱(三十五)
東学党の乱(六)    東学党の乱(二十一)  東学党の乱(三十六)
東学党の乱(七)    東学党の乱(二十二)  東学党の乱(三十七)
東学党の乱(八)    東学党の乱(二十三)  東学党の乱(三十八)
東学党の乱(九)    東学党の乱(二十四)  東学党の乱(三十九)
東学党の乱(十)    東学党の乱(二十五)  東学党の乱(四十)
東学党の乱(十一)  東学党の乱(二十六)  東学党の乱(四十一)
東学党の乱(十二)  東学党の乱(二十七)  東学党の乱(四十二)
東学党の乱(十三)  東学党の乱(二十八)  東学党の乱(四十三)
東学党の乱(十四)  東学党の乱(二十九)  東学党の乱(四十四)
東学党の乱(十五)  東学党の乱(三十)    東学党の乱(四十五)


東学党の乱(四十五)

テーマ:

さて、今日も早速前回前々回に続いて、1894年(明治27年)6月2日付『京第28号』の続きを見ていきましょう。

14)全州滞在中、京兵乱暴の状なし。
又た、軍隊を脱して京に帰りたるものありとの噂も聞かざりしが、彼等の直話に拠れば、京兵の糧餉は現銭を以て支給し、毎日兵士1人に付朝夕2次は飯代として各1文銭30文づつ、昼は酒費として同20文づつ、合計80文(我12銭余)を給せらるるのみなれば、兵士の中には日に1食して、残余の飯代は濁醪を估ふて一醉を求むるの輩も少からずと云ふ。
且つ此等兵士は、何れも3ケ月以来月餉を領せざれば、京地にある家族共の生計を案じ、煩ふもの甚だ多き有様なりし。
津沼米作が全州に居る間、招討軍が乱暴したという話も、軍隊を脱けて京城に帰った者がいるという噂も聞かない、と。
昨年の12月21日のエントリーで袁世凱が言っていた、全州から京城へ逃げ帰ってきた者もいるってのは、どこまで本当なのかな?

で、招討軍の兵士の話を聞くに、招討軍の兵糧は80文を現金支給。
しかも酒代込み。(笑)
おまけに1日1食で我慢して、残りでどぶろく買って飲む者も少なくない、と。
つうことは、毎日80文交付されてたのか?
どんな軍隊やねん。(笑)

で、これらの兵士は皆3ヶ月前から無給。
京城にいる家族の生計を案じて、心を痛める者がかなり多い状態。

またかよ、と。(笑)
同じ事何回繰り返せば気が済むんでしょうかねぇ?

15)全州城内外住民中には、夥しき東学党あるならんとの事なれども、何分彼等は通常の朝鮮服装なれば、是れとて識別の途なし。
又士兵の如きも、現在の形況にては官家と兵とあれば迚死するも葬られず、傷くも恤まれず、出力奮闘するも賞せられずと云ふ有様なれば、旗色の模様によりては、隨分乱党に加盟する事なしとも言ふべからざるが如し。
現に営兵1人は、白山の役に弾丸に中り、片腹を打抜かれたれども、治療什抱を加ふる事もなく、監司より一貫文(我1円50銭)を与へて除隊せりと云ふ。
全州城内外の住人中には多くの東学党がいるだろうとの事だけど、結局普通の朝鮮の服装着てるだけなので、識別できない、と。
いや、当たり前だし。

で、士官や兵士なんかも、どうせ死んでも葬られず、怪我しても顧みられず、頑張って奮闘しても賞されずという現在の状況では、戦況によっては乱民の方に加入する事もないと言っちゃうような感じ。
実際に営兵の1人は、白山の役(仮称)中に弾丸に当たり、片腹を打ち抜かれたけども治療さえしてもらえず、監司から1貫文貰って除隊した、と。
1月7日のエントリーでも、負傷してそのままの人が、傷口腐らせてましたなぁ。( ´H`)y-~~

16)以上の有様にて、5月1日以来全州及び附近地方は人心恟々。
商戸は閉鎖し、農夫は耕さず、全州市街には日々唯だ少許の野菜類を小売するを見るのみ。
一般取引全く中止の姿なり。
去れば本年朝鮮の米作は、好しや如何なる豊稔の年廻りにもせよ、全羅一道は殆んど荒饉に同じかるべしとは、滞在中目撃したる実況と地方韓人の評説とを対照したる推測なり。
尤、麦作は同地方及沿途各処、概ね最上の作柄なりし。

17)全州米価は、5月7日より8月9日へ掛け、1升5文方高価を現はしたるが、其後同地出立の頃迄差したる変動なかりし。
この辺は商人らしい話。
東学党の乱の影響で、商店は閉まり、農夫は農作業せず、全州市街でわずかばかりの野菜類を小売りしているのを見かけるだけで、一般の取引は全く中止状態。
つうか、そんな中で兵士に現金だけ与えて、どうやって飯を確保してたんだろう・・・?

まぁそういう状態なので、今年の朝鮮全体の米作が如何に豊作の年であっても、全羅道だけは饑饉の年と同レベルだろうというのが、実際に目撃し、且つ地方の韓国人の評判を聞いた上での推測、と。
最も、1月18日のエントリーでもあったとおり、この地方の麦は豊作。

で、全州の米価は、5月7日~8月9日にかけて1升につき5文値上がりし、その後全州を離れるまでそれほど変動しなかった、と。
つうか、この日付は合ってるのだろうか・・・。

18)前記竹槍隊は、京軍の到着を以て一旦解散せしが、京軍が霊光地方へ出発の後、更に其5人に就き1人を抜き取りて営城の警固に充てりとの事。
又、営内官吏は依然在勤し、并に近傍地方長官の監営を脱し来るものなしと云ふ。
1月20日のエントリーで閔泳昇が集めて編成した竹槍隊は、招討軍の到着で一旦解散したものの、招討軍が霊光方面へ出発した後に、竹槍隊の5人につき1人を全州城の警護に充てた、と。
一応、空っぽっつうわけでもなかったのね。
まぁ、当てには出来ないわけだけど。(笑)

で、営内の官吏は普通に勤務しており、近くの地方長官も逃げてきた者はいないと言う、と。

19)今回民乱の起原は、要するに本年全羅道地方に於ける貢米取立の苛虐なるを怨むと共に、転運事業に不満を抱けるものの爆発したるに外ならざるが如し。
加之従来監司及び地方長官の虐政に怨を懐くもの多きが如くなれば、各地一般人民の怨懣を根拠として、東徒の之に乗ぜるものの如し。
全州滞在中同地に居合はせたる本邦人は、酒井平蔵(京城居留)、外に痣抜き薬を販売するもの1人(40歳前後)のみなりし。
又、清国行商者2人、雑貨少許を城外に排列せるものを見受けたりと。
これまで何度か指摘されていた通り、東学党の乱の起きた理由は、全羅道地方の年貢米の取り立てが苛酷なのを怨むと共に、転運事業に不満を抱いていたのが爆発したからに違いないようで、更にこれまでの監司や地方長官の虐政に怨みを懐いている者も多かったようであり、その各地一般人民の怨懣に東学党が乗じたものだ、と。

で、津沼米作が全州に滞在していた間に居合わせた日本人は、京城に住む酒井平蔵と、40歳前後の薬売りのおっさんだけ。
清国の行商人は、2人が雑貨を少しばかり全州城外に並べているのを見ただけ、と。

20)忠清道沿路地方は、商民安穏。
只、公州市日は元来全羅慶尚2道の商貨を目的とするものなるに、近頃此2道の商人は一人も来会せざるより、市場は実に痣寥を極め居れりと云ふ。
又該地方人民が東学に対する感情は、寧ろ甚だ好き方なれども、自分通行の際には全羅の戦況等も未だ十分知れ渡らざりし故、格別新聞もなく至極平穏なりし。

21)沿途黄山及び江鏡にて出会したる本邦人は左の如し。

白木彦太郎 田中良助 小柳嘉八
大野五三衛 中藤 某 木下笹市
尾高茂太郎 源野 某 土川政泰
長谷川勝造 松田 某 三木 某
ブリッキ細工姓名不知人1人、年齡21、2年
共計 13人

右為御参考報告申進候也。
忠清道地方では商人も民衆も平和。
んー、公州方面でも東学党が蜂起してた筈なんだけどなぁ・・・。

ただし、公州の市日は元々全羅道と慶尚道の商品等を目的としているのに、この頃2道の商人とは1人も来ないため、市場は閑散としている、と。
これは恐らく、昨年の12月9日のエントリーでの、毎年旧暦5月1日から1ヶ月ほど大きな市が開かれ、朝鮮全土から行商が集まるって話の事でしょうね。

で、公州地方の人民も、東学に対して好感情なわけですね。
最も、津沼が通った時には、全羅道の戦況等も良く知られていないようで、新しい事実を聞くことも無く、至極平穏。

次は黄山と江鏡で出会った日本人13人のリスト。
松田某と小柳某(恐らく小柳嘉八の事)は、1月20日のエントリーでも漢陽号機関手の徳永正一が名前出してましたね。
っていうか、結構日本人いるじゃん。


ってことで、1894年(明治27年)6月2日付『京第28号』が終わったところで、今日はこれまで。



東学党の乱(一)    東学党の乱(十六)    東学党の乱(三十一)
東学党の乱(二)    東学党の乱(十七)    東学党の乱(三十二)
東学党の乱(三)    東学党の乱(十八)    東学党の乱(三十三)
東学党の乱(四)    東学党の乱(十九)    東学党の乱(三十四)
東学党の乱(五)    東学党の乱(二十)    東学党の乱(三十五)
東学党の乱(六)    東学党の乱(二十一)  東学党の乱(三十六)
東学党の乱(七)    東学党の乱(二十二)  東学党の乱(三十七)
東学党の乱(八)    東学党の乱(二十三)  東学党の乱(三十八)
東学党の乱(九)    東学党の乱(二十四)  東学党の乱(三十九)
東学党の乱(十)    東学党の乱(二十五)  東学党の乱(四十)
東学党の乱(十一)  東学党の乱(二十六)  東学党の乱(四十一)
東学党の乱(十二)  東学党の乱(二十七)  東学党の乱(四十二)
東学党の乱(十三)  東学党の乱(二十八)  東学党の乱(四十三)
東学党の乱(十四)  東学党の乱(二十九)  東学党の乱(四十四)
東学党の乱(十五)  東学党の乱(三十)


東学党の乱(四十四)

テーマ:

前回、笑えるポイントまでは行き着けなかったものの、招討使や監司の報告では随分曖昧だった、監営軍の敗退(白山の役?)について流れは把握できました。
ってことで、今日も仁川の能勢領事から杉村臨時代理公使への、1894年(明治27年)6月2日付『京第28号』の続きを。

8)11日、京軍990人群山より到着せんとの説ありしが、実際600人なりしと云ふ。
是日自分も京軍の到着を望見したるが、招討使の身辺に支那海軍士官らしきもの1人(羅紗服に金筋一本の袖章を付けたり)、其他綢緞の平服を着けたるもの3人及び外に7、8人共計11、2人の清国人同行したるを見留めたるが、監営中の評判には都合17人なりとの事。
尤、此内5名は再翌13日群山へ返り去り、其余は招討使と終始同伴せり。
5月11日、約1,000人が来ると噂されていた京軍が、実際は600人ほどで全州に到着。
これを口述している津沼米作もその到着を見たが、招討使洪啓薫の側に清国の海軍士官らしい者1名(ラシャ服に金1本の袖章を付けた者)、その他絹の平服を着けた者3人とその他7~8人の、合計11~12人の清国人が同行しているのを見た。
噂では、都合17人の清国人がいる、と。
尤も、このうち5名は翌々日の5月13日に群山へ帰り、その他は招討使と終始同伴。

1月20日のエントリーでも、金モール袖章を付けた清国人等の話が出ていましたね。

9)14日、鎮北亭に於て操練あり。
此日も自分は現場を目撃せしが、監司、招討使と同席したる支那人3名(綢緞通常服)、其他巡捕の如きもの4名、都合7名を見受けたり。
皆、各紅絨嚢入れの長刀と洋槍を携へたるが、前記3名の貴賓は17連発の新式銃を所持し、操演畢る後誇り貌に之を試発せり。
此時監司も、村田銃を試発したり。
此外清国水兵等は更に見受けざりし。
只だ、当時全州にて風聞するところは、支那水兵群山より上陸して敵後を襲ふの約ありとの一事なりき。
此日操演を了るや、監司は演武堂に於て直に宴を開きて招討使竝清国賓客を饗応したるが、置酒高宴韓妓数名を侍せしめ、観物人の目前にて楽を奏じ、大に快楽を盡したり。
時節柄、斯様なる振舞は苦々しき事とて顰眉するものありき。
此夜6時頃、前任監営領将金某は監営に赴き、洪招討使を見て東徒勢ひ急なるを説き、営兵を請ふて一方を鎮圧せんと欲する旨を談ぜしに、何か洪は意見を異にし、彼是口角を生じ、其極洪は激怒して親兵に命じ笞状を用ひて金某を打責せしかば、金は益す慙憤激罵抗言して屈せざりしが、洪は遂に怒て、左右をして現場に於て金を斬戮せしめたる。
営内の紛擾は一方ならざし由。
自分は斯る椿事の生じたりとは知得せざりしかば、外出先より己れが宿所に帰らんとせしに、何時の間にか営兵は各街巷を警戒し、自分の旅宿の前にも多人数屯在し、厳密査訊の上辛ふじて戸内に投ずるを得たり。
此夜金は梟首せられたるを見受けたるが、同人は年齡62にも達すべきか、曾て東学党を鎮圧したる事もある由にて頗る郷曲知名の士なるに、営内にては同人を以て東学と通謀せりとでも嫌疑せるものにや、何様気の毒なる次第なりとて、其非業を惜む者多し。
又、聞くところに拠れば、監司と招討使とは彼此異見を抱き、金の一案に付ても両者の議相容れざるところありしと云ふ。
5月14日、鎮北亭で軍事訓練。
前回判官閔泳昇が、毎戸1名づつ竹槍持って集まらせた場所ですな。

で、この現場を津沼米作も目撃したが、監司、招討使の他に絹服の3名と巡査っぽい4名、計7名の清国人を見受けた、と。
皆、それぞれ長刀と洋槍を持っていたが、貴賓の清国人3名は17連発の新式銃を持っており、訓練終了後に自慢気に新式銃を試射。
嫌な奴ら。(笑)

この時、監司も村田銃試射。
日清戦争直前だから、十八年式かな?

で、それ以外には清国水兵等は見かけなかったが、当時の全州では、清国水兵が群山から上陸して敵の背後を襲う約束があるとの噂があった、と。

さて、ようやく笑えるポイントに差しかかりました。(笑)

訓練の終わった後、監司は演武堂ですぐ宴会を開いて、招討使や清国賓客を接待。
韓妓数名を侍せ、見物人の目前で楽を奏じたりと、どんちゃん騒ぎ状態。(笑)
当然、東学党の乱の最中、しかも白山の役(仮称)の大敗から1週間も経ってないわけで、こういう振る舞いについて苦々しく思って眉をひそめる者もいた、と。
当たり前じゃん。(笑)

で、この夜6時頃、前任の監営領将だった金某が監営に来て、洪啓薫を見て「東学党の勢いが増しており、営兵を出してもらって一方を鎮圧したい」と申し出ると、洪啓薫と口論となり、その挙げ句に洪啓薫火病。(笑)
親兵に命じて笞で金某を打ち据えさせたものの、金はこの屈辱に憤り益々激しく罵倒して抗言。
これに洪啓薫は怒り心頭。
遂にその場で金某を斬り殺させた、と。
お前等、何やってんの?(笑)

当然、営内の騒ぎは尋常ではなかったらしい、と。
津沼米作は、このような珍事が起きているとは知らず、外出先から自分の宿に帰ろうとすると、いつの間にか営兵による厳戒態勢状態。
津沼の宿の前にも多数の営兵が居り、厳密な訊問の末ようやく屋内に入る事ができた、と。

金はその日の内にさらし首となっていたのを見かけたが、年齢は62歳くらいで、かつて東学党を鎮圧した事もあると良く知られた人物であるにも拘わらず、営内では金を東学と通謀したとでも疑っているかのようで、皆気の毒だなぁと金の非業を惜しむ者が多い。
また、聞くところに拠れば、監司と招討使の間でも意見の相違があり、金の申し出についても、互いの主張で相反するところがあるそうだ、と。
何つうか、伊達に1月4日のエントリー1月17日のエントリーで嫌われて無いですな。(笑)

では、続き。

10)15日には、去る8日捕へ来れる囚人中(此内60名は前日放還せり)、3名を梟刑に処し、其他は悉く放釈せり。
此3名は全く東学の徒党なりとの事。
昨夜斬殺されたる金姓も、右3名と同所に梟首せられたり。
5月15日。
前回捕まった囚人中、東学党の徒党であるという3名がさらし首となり、その他は皆釈放。
で、先ほど惨殺された前任の監営領将金も、東学党3人と同じ場所でさらし首。
つうか、金の扱い酷過ぎ。(笑)

11)16日、京軍200名、夜半俄かに霊光・務安に出発せり。

12)21日、更に京軍200名を派して同上地方に向はしめたり。

13)22日招討使親から残余200名引率して、同上地方に出陣せし事を聞けり。
此際同行の支那士官も、洪氏と同伴せりと云ふ。
1月16日のエントリーで全州が空っぽだったのは、こういうカラクリだったのか・・・。_| ̄|○
そういえば、昨年の12月30日のエントリーで挟撃計画とかもあったなぁ・・・。

んと、5月16日に招討軍200名が霊光・務安方面に出発。
5月21日、さらに200名を同方面へ派遣。
翌5月22日、残りの200余名を招討使洪啓薫自らが率いて、同方面へ出発し、清国士官等もこれに同伴したそうだ、と。

挟撃するにしても、自分より多い兵力を相手にして、自分の兵力を三等分する意味が分からないんですが・・・。(笑)


まだ続くんですが、今日はここまで。



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