チベットで刑務所に入れられた僧侶の証言 | チベットとビルマの難民支援 難民支援NGO"Dream for Children"公式ブログ

チベットで刑務所に入れられた僧侶の証言

チベットで刑務所に入れられた僧侶の証言です。今はインドのダラムサラに亡命されています。


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私の名前はロブサンといいます。




1989年、チベットのラサで中国政府に対する大きな抗議活動が起こりました。1989年はラサでは大きな祭があった年です。そこに、セラ、デプン、ガンデンの各僧院の僧侶が集結しました。私はラサ近郊の僧院から抗議活動に参加しました。18歳のときでした。デモは僧侶、尼僧、一般人を含め数千人規模となりました。デモの後、私たちはいったん僧院に戻りましたが、警察が僧院にやってきてデモの首謀者探しを始めました。警察は、「デモに関与した者は名乗り出よ。隠し事をすると刑が重くなるぞ。」と言いました。しかし、名乗り出るものはいませんでした。すると、警察は「チベットは中国の一部なのだ。」と言い、2人の僧侶を殴り始めました。それを見て、再び「チベットに自由を!ダライ・ラマ法王、チベットにお戻りください。」という抗議の声が上がりました。警察は、「今日はとりあえず部屋に帰って寝ろ。さもなくば全員逮捕するぞ。」と言いました。私たちはいったん部屋に戻ることにしました。




翌日、再び警察がやってきました。この日は500人ほどの武装警察を連れてきました。警察は僧院を取り囲みました。そして、隊長が「こんなことをしても、どこの国もお前たちを支援したりはしないのだ。デモの首謀者は立て!」と言いました。そして、私と私の弟、そして、別の2人の僧侶が立ち上がりました。武装警察は私たちを連行しました。私たちは手錠をかけられました。そして、トラックに乗せられ移送されました。移送されている間、手錠がきつくなっていきました。(訳注:締まる方向にしか動かないタイプの手錠をかけられたと思われる。)道が悪くトラックが揺れたため、私たちは体の色々な部分を打ちました。そして、トラックに乗っている間も、警察から銃で殴られたり蹴られたりしました。僧院から刑務所までは2時間ほどかかりました。




刑務所に着くと、再び警察に殴られました。その後、刑務所の中庭に集められ、壁に向かって直立不動で立たされました。少しでも動くと、こっぴどく殴られました。彼らは、拳、肘で殴り、膝で蹴りました。肘、膝の一撃は激痛でした。私の弟は腎臓を殴られ、気絶してしまいました。




その後、私たちは独房に移されました。電気も水もありませんでした。部屋は小さく、声を出すと自分の声が反響しました。当時は12月でしたが、布団などはなく凍えそうでした。独房に入った次の日、私たちは一人ずつ別室に呼ばれ、「お前たちをそそのかしたのは誰だ?」と尋問されました。私は、「そそのかした人などいない。自分の意志でやったのだ。」と言いました。彼らは電気棒(訳注:高圧電流を発生させる棒)で私を殴り、私は気を失ってしまいました。その後、冷たい水をかけられて私は目を覚ましました。やがて服が凍り始めましたが、着替えはないので、そのまま服を着続けました。尋問は計一ヶ月にも及びました。




刑務所の食事は主にツァンパ(訳注:大麦を使用したチベット料理)でしたが、ツァンパとはいうものの、ほとんどお湯でした。そして、香辛料がたっぷり入れられていました。これを食べると口や胃がひりひりするので食べたくはありませんでしたが、他に食べるものもないので食べざるをえませんでした。この食事のため、私は腎臓を悪くしました。そして、「医者に診てもらいたい」と役人に言いました。役人は「お前たちは懲罰を受けにここに来たのだ。医者に会う権利などない。」と拒絶しました。釈放された今でも腎臓は悪いままです。



刑務所にいる間は、刑務所内の労働もさせられました。私はトイレ掃除をさせられました。刑務所のトイレは、洋式トイレとは違ってひどく汚いのです。掃除道具などありませんでした。自分の手や服で掃除をさせられたのです。終わった後、手を洗うことも許されませんでした。着替えもありませんでした。




一ヶ月に一度、家族との面会が許されました。家族は食料や着替えを持ってきてくれました。しかし、それらはすべて役人に押収されました。




刑務所で十ヶ月の刑期を終えた後、私は釈放されました。その際、役人から手紙を渡され、それを僧院に持っていくようにと言われました。その手紙には、「私を僧院に置かないこと」と書かれていました。僧院を追われた私は家に戻るしかありませんでした。しかし、家には中国のスパイが張り付いており、私を監視しました。相当なストレスでした。村から出るにも役人の許可証が必要でした。また、仕事に就くことも禁止されたため、生活は困難を極めました。




ある日の夜、こっそり村を抜け出すことに成功しました。そして、一ヶ月かかってネパールとの国境に辿り着きました。そこからネパール人ガイドを雇ってヒマラヤを超えました。ガイド料は600元でしたが、ガイドは優秀で近道を知っており、十日ほどでカトマンズに辿り着きました。ネパールで一ヶ月ほど過ごした後、インドのダラムサラに向かいました。そして、ダライ・ラマ法王に会い、自分の経験とチベットの現状をお話しました。法王は、「これからの生活はどうするのだ?」と聞きました。「私は南インドで仏教の修行をします。」と答えました。1991年から修行を始め、2006年に博士の学位を得ることができました。その後、ダラムサラに戻って今の暮らしをしています。




チベットの状況は今も変わっていません。数千人の人が今この瞬間も刑務所で拷問を受けています。帰国したら、まわりの人にこうした事実を伝えてください。そして、中国政府に圧力をかけてください。また、みなさんは中国人の友達はいますか?中国人の友達にもこうしたことを伝えてください。別に、「中国人はチベットから出て行け。」などと言う必要はありません。ごく当たり前のことを言ってください。「基本的人権を尊重しましょう。人を殺さないようにしましょう。拷問をしないようにしましょう。」


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彼の腎臓は今でもかなり悪いとのことです。外傷が残らないように、肝臓や腎臓を殴るのは刑務所の役人の常套手段です。健康な状態で刑務所から出られる人は残念ながらまずいません。