ご無沙汰しております!


有馬神社と石峯寺など行って参りました!


HMT の一環なのですが、やはり重要なものが次々と出てきまして、先ほど夢殿のような状態(?)になりました。



イクド・ルシェル巡礼 イクド・ルシェル巡礼

日本三大古泉に数えられます有馬温泉なのですが、その歴史は意外と知られておりません。



イクド・ルシェル巡礼 イクド・ルシェル巡礼

HMT (GSJ)で追求しておりますある人物を追って石峯寺を訪問しましたが、やはりどんどんと芋ヅル式で出てきますよね。


孝徳天皇勅願所として気になるところは、ここ石峯寺と越後国一之宮天津神社 (玄松子の記憶)、そして茨城県の佐白山観世音寺 (観音霊験記)


上記ページに気になることが書かれています。


*****引用はじめ***

縁起によると、当地に住む猟師の粒浦氏は、狩に出る前に鏡に自分の姿を映して、その日の猟を占っていた。ある日、いつものように鏡を見ると、白馬白鹿白雉が、霊木を守護しているところが映った。急いで山に入ると、白髪の老翁が現れて、粒浦氏を鏡に映ったのと同じ場所に導いた。粒浦氏は発心して猟をやめ、霊木の近くに草庵を建てた。

*****引用おわり***


この文章を見た直後に、少しの間、夢の世界に行きました。そこで十一が土になり、もうひとつの11が重なり、”田”の上一本がないような字が出てきました。



2006年の3月 に佐白山の途中まで上がりましたが時間の関係で引き返した過去があります。この時も非常に気になっていたのを覚えていますが、確か岩がすごいんですよね。


それと、やはりオオナムチとスクナヒコナの組み合わせが、道後温泉/有馬温泉、大洗・笠間に強烈にあるので何らかの深い地下水脈があるとは思っておりました。


大抵、温泉が出る地域にはオオナムチとスクナヒコナのセットはあるのですが、孝徳天皇に関わるこのセットは非常に高い確率でものすごく巨大な太陽信仰に関わっていると感じるからです。


石峯を”しゃくぶ”と読むのは、おそらくミシャクジと関わっているからであり、前々回書きました大避神社の項 ともつながっているわけでございます。


つまり、やはり赤穂や明石などの赤は、当時の文明の中心地を象徴する赤であり、それが太陽の赤、そしてファラオ(天皇)の赤とつながってくるわけです。



そして糸魚川の翡翠も統合しているわけですから、明らかにここに文明の中心があり、ここから大和の舵を取っていたということになろうかと思います。


そして、その権力統治において最も核になるのが※丹生 ※や翡翠などの鉱物だったのです。つまりこの時点ではまだ、律と令、あるいは天皇制そのものが力をそれほど持っていなかったということになるのです。


これは※日本の律令制 ※にも書かれている解釈が正しいと思います。



佐白山観世音寺の創建が白雉二年(651年)


石峯寺の創建も白雉二年(651年)



その3年後に孝徳天皇は崩御されています。石峯寺にいきますとやはり孝徳天皇がやろうとしていた統治形態は独特であると思いました。


中国の四神思想を用いながら、日本古来のミシャクジを復活させ、丹と翡翠による鉱物権力統治、そしてインドから直接取り入れた仏教による鎮護国家思想。


かなり独特です。でも、そのシンクレティズム感は、私にとってはとても心地の良いものでした。



イクド・ルシェル巡礼


孝徳天皇の母親は吉備姫王、そして皇子は有間皇子です。


有間皇子は父・孝徳天皇が亡くなられた4年後に亡くなられています。謀反だったのか謀反の罪を着せられたのかはわかりませんが、私はおそらく後者の線が濃いのではないかと感じます。



孝徳天皇が仏教を尊んだこと。そしてその時代の古寺が播磨に多いこと。そして播磨/有間との音の関連性。吉備姫王という吉備との因果関係を連想させるような血統を持っていること。


そして父・孝徳天皇が上記のような統治形態を志向する関係から暗殺された可能性が高いこと。


また、舒明・斉明天皇考察 でも書きましたように※倭京 ※が、現在でも皇室に麻を献上している阿波忌部氏がおります東四国と何らかの深い因果関係を持っていただろうと推測されること。


また、当時の海軍力の強さは黒潮にあっただろうと推測されること。(黒潮に乗れなければ常陸まで到底、統治できない。当時の霊的意識というのも全国的に平等にあったような感じで現代よりも差異が少ない。ということはつまり黒潮を使った情報網/統治網を大王が持っていたということ。これは権力ではなく、海人族を内側につけていたということ。もしくは皇室そのものが海人族であるということ。)


朝鮮半島に最も早く到達できるのは畿内ではなく瀬戸内であること(九州では瀬戸内の制海権を掌握できない⇒瀬戸内の制海権を象徴するのは金刀比羅宮と大山祇神社⇒それをバックボーンにした先住民族系の反乱が藤原純友の乱⇒この時に備前一之宮だった安仁神社が純友側についたため乱後、安仁神社は社格没収の憂き目に)


孝徳天皇が有馬温泉に湯治に来ていた時に生まれたのが有間皇子であるという不思議。一言主を畿内出自とするために後出しじゃんけん論法でこじつけたような同じ思考回路/痕跡が見受けられること。


また、この後出しじゃんけんこじつけ論法は、播磨出自の牛頭天王にも大いに関係があること。



まだまだたくさんありますが、上記のような様々な理由から、孝徳朝/斉明朝の中心地は播磨寄りの摂津にあり、舟を使ったショートカットの往来で白浜に度々、行っていたということになろうかと思います。


元々、熊野権現の当初安置地も白浜周辺部であり、奥の院が淡路島のユズリハ山ですから、そのラインがやはり当時の文明の基盤だろうと思います。




また、新たな事実が判明次第UPしますね^^









皆さんが、それぞれのオリジナリティに到達して
自由に伸び伸びと生きていけますように
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