持統上皇三河行幸 その十二 三河に伝わる皇子伝承②

文武天皇伝承
持統上皇の孫であり、草壁皇子の子供の文武天皇ですが、実は東三河には文武天皇が行幸したという伝説が豊橋市下条地区に残っているのです。実は文献でいうと江戸時代の渡辺富秋著『三河国墳墓記』に記されています。

文武帝陵
下条竹内村正楽院境内にあり。伝に云ふ、文武帝東征の時、この地皇居三年、その後、藤原の宮に還幸なり。このところに陵あることいぶかし。行在所に於て竹内王子が誕生、幾程なく薨じたまふ。この旧跡をさして帝の陵と云ふか。

 
豊橋市下条にある正楽寺です。
 
境内にある文武天皇稜と呼ばれる石塔です。
 
傍らには十二人の后の墓もあるそうです。

十二人后墳
右同所にあり。帝の別れを惜みて御所ヶ池に身を投げたまふと云ふ。


この霊江寺の前に御所ヶ池があったそうです。
 
この田んぼのところが当時池だったそうです。

 もともと豊橋の下条という地名の由来が、701年(大宝元年)文武天皇が三河を行幸された際しばらくこの星野の地に滞在されていました。牛車に乗られている途中、川を渡られた時に日が暮れかかったので「暮川(くれがわ)」と名づけられました。また、夜になり星野の行在所にお着きになり、牛車から降りられたので「下乗(げじょう)」と呼んでいましたが、のちに「下条(げじょう)」となったそうです。このお話は自体は鳳来寺旧記や一宮旧記にかいてあるとのことです。


正楽寺の和尚さんに聞いて、伝承の御所のあったところに行ってみると、不思議なものがありました。造園の意思置き場かも知れませんが、何か磐座のような物にも思えました。
 
これが何なのか謎なんですけど、近所に誰も人がいなかったので聞くことができませんでした。
 
しかも、よく見ると真ん中に犬小屋があるんです、、、、残念 


 さて、なぜこのような伝承が生まれたのでしょう?まずはこの下条という土地を考えてみましょう。この下条の星野の地の星野とは熱田神宮の宮司の一族で宝飯郡星野荘(現在の豊川市行明地区)を発祥とする星野氏と何らかの関係のある土地だと思われます。そこには星野城という古城もあり、現在でも石巻地区一帯には星野という姓の方が多く住んでいます。現在では星野の行在所の場所はわからなくはなってしまいましたが、いろいろな名残は残っていました。まず、正楽寺にほど近い堀の内にある霊江寺の前は(いまでこそ田んぼになっていますが)御所ヶ池という池があったそうです。
 
その霊江寺の前にある比売天神社です。主祭神は天鈿女命で、明治以前は「日女天神さま」とよばれていたそうです。
 
日女天神というとなんだかアマテラスのようですよね。
 
もともとのアマテラスはこんな小さなカミサマだったのかも知れませんよね。
 
お社は新しくなっていて立派です。
 
この神社には雨乞いのお面が伝わっています。東三河で雨乞いの神事のある神社は、蒲郡市の赤日子神社、豊川市赤坂の宮道天神社、渥美の雨乞神社等、東三河では多数の神事として伝わっています。
そういえば罔象女神のクラミツハを祀る京都の貴船神社も雨乞いの神事がおこなわれますよね。そう考えると瀬織津姫も古くは雨乞いのカミサマだったのかも知れませんよね。

 さて、文武天皇は本当に三河に行幸していたのでしょうか?その一つの答えが参河國名所図会に記されています。その内容は、ここにいた貴人は実は文武天皇に縁のある姫君で、なおかつ文武天皇の后にうらみをもたれこの地に隠遁していたというのです。それは一体だれなんでしょう?実は続日本紀には文武天皇が正式な皇后を持ったという記録は存在しないのです。これはおいらは意図的に記録が消されたと睨んでします。
 梅原猛は著書『黄泉の王』のなかで、文武の后は紀皇女だったのですが、弓削皇子と密通したことが原因で妃の身分を廃された、という仮説を『万葉集』の歌を根拠に展開しています。このことを踏まえると、文武天皇の后であった紀皇女が、弓削皇子と不倫をして子を宿し、(十二人の官女とともに)この東三河の地に隠遁していたらと考えたら、それだけでも持統上皇がこの東三河の地に来て、消息を確認したかった理由になるのではないかとおもいました。こうして弓削皇子と子を宿した紀皇女はここで一男の皇子を出産するのです。それこそこの伝説の竹内皇子ではなかったのではないのでしょうか?
 もしこの仮説が本当なら、その後の文武天皇の病気の原因は、この后が子を宿したこととして、表向きは文武天皇の病気平慰のために鳳来寺の勝岳仙人に祈祷をお願いしたという説は、実はこの弓削皇子と紀皇女暗殺のために派遣された暗殺軍団で、草鹿砥氏がそのリーダー格だったという仮説も浮かび上がるのですが、あくまでもおいらの想像ですがね(笑)
 
 以前おいらはブログで「大津皇子と牟呂八幡宮 民話「海に消えた皇子」より 」という仮説を載せました。このときは愛知県豊橋市牟呂町にいた皇子は大津皇子としましたが、もしかしたらこのとき海に消えた皇子こそ弓削皇子であったのかもしれません。そして、子を宿した紀皇女は、同じ安曇族の集落である下条に住まわせていたとしたら話は繋がってきますよね。