郷土の山本勘助とアラハバキ神



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砥鹿神社 (愛知県豊川市)にある荒羽々気神社


 三河の国の一宮は豊川の北にある砥鹿神社 である。最初に祀られたのは西方の本宮山の山頂で、現在は奥宮と言われている。古代よりこの地は山岳信仰の対象であったようで、巨石信仰のあともうかがわれる。この奥宮の摂社としてアラハバキ(荒羽々木)神社がある。神社の説明ではオオナムチのアラミタマ(荒魂)となっている。アラハバキとは東北に見られる、謎の神様 で、このアラハバキ神が中部地方に祀られていることそのものも珍しい。

 またその本宮山のお膝元、竹生神社(三河カントリーの手前)には現在、瀧神社(瀬織津姫)が鎮座しているし、竹生神社の荒羽々気神=荒御魂も消された水の女神と対で祀られていた日の男神と解釈できるし、石座神社の荒波婆岐社の祭神についても豊磐窓、櫛磐窓とするより祭神(天照国照彦火明命)の荒御魂と解釈できるのではないかと思う。対で祀られた水の女神は、比壺大神(壺神→甕神)となる。



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本宮山奥宮 荒羽々気神社


 ではこのアラハバキ神とはいったいなんであろう?『記紀解体』の著者、近江雅和によると原点は南アラビアのヤマン地方にあったとされている。日本と南アラビアの関連を立証するものとして、近江氏は榎本出雲氏が提唱する日本語の「南アラビヤ起源説」を取り上げている。榎本氏は、アラビア語と日本語には二千以上の対応語があると述べ、言語ばかりでなく、日本の古代信仰や、習慣にも今もなお根強く生きていると言う。アラビア半島の東南端にあるヤマン(英語でイエメン)は、アラビア人、アラビア語の発祥地である。アラビア民族は、発生以来現在まで残存している部族を「バーキィ」と呼び、この中でもアラビア居住のアラブ人を「アリーバ」という。近江氏は「『アラハバキ』をアラビヤ語でみると、アラァ()、バーキィ(残存している人でヤマンの人々を指している、不滅の、永遠の)から、『ヤマン部族の神、不滅の神』いうことである。」と述べる。近江氏によればアラハバキの信仰は、弥生時代のごく初期、あるいは縄文時代の終りの頃に日本への第一次渡来したものであるという。「ヤマンからの渡来経路については陸路と海路の両方があるが、縄文時代の終り頃かと思われる時代に、南回りの海路で海人系がアラビヤ半島から持ち込んだ」と述べている。さらに「大陸回り、南の海路からの両方が考えられるのであるが、そのいずれも同一の信仰形態のものであって、この日本最古ともいえる神は唯一絶対の神であった。」と述べている。第二次の渡来は、南アラビアからインドそして中国を経て「大元尊神」として日本にもたらされたものであり、近江氏はそれを『記紀』成立時期と見ている。



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石座神社のアラハバキ神(愛知県新城市)

 アラハバキが大元尊神と変化した理由を近江氏は『記紀』神話による圧力に対する抵抗ととらえ、「『記紀』に対する執拗なまでの反抗は、アラハバキが変容する経過にも現れていることを知ることができよう。」と述べている。

 つまりアラハバキこそがいにしえの製鉄の神様であり、大和朝廷の無謀な歴史改竄により、迫害・弾圧の対象となったが、中部・関東・東北で脈々と反体制のシンボルとなっていったのではないかと思われる。しかもアラハバキから変容したとされる門客人神の像は、片目で祀られていることが多いという。片目は製鉄神の特徴とされている。こうしてアラハバキ神は弾圧されながらも天目一箇神、妖怪の一本ダタラとなっていていたのである。余談ではあるが、「ゲゲゲの鬼太郎」もこれがモデルといわれている。

 では山本勘助の生誕の地とされる牛久保についてであるが、北には諏訪町があり古くから製鉄と関係があることがうかがえる。諏訪はスハ=洲砂となり砂鉄のとれる場所という意味となる。また同意語でスカがあり須賀という地名は豊橋の横須賀(津田校区)、渥美の中山の須賀地区、さびの砂がとれる川という意味で寒狭川(サムサ川)等古代では製鉄が盛んであったことをしのばせる。



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竹生神社(愛知県新城市)のアラハバキ神


 あくまでも仮説であるがこの東三河中心に製鉄を営んでいた民族が、のちに大和朝廷と相対する勢力となり関東、東北へ落ち伸びていった。(鉱脈のある中央構造線に沿って移動し、奥羽山脈にそって北上)その封印された歴史を山本勘助の名前を使い江戸時代になって表現したかったのではないだろうか。また山本勘助の最初の仕事が諏訪氏の娘を晴信の側室にしたのも深い意味があるのではないか?諏訪氏はもともと記紀神話 に基づく起源としては、天照大神 の孫、瓊瓊杵尊 (ににぎのみこと)の降臨に先立ち、出雲を支配していた大国主命 に国譲り、つまり出雲王朝の支配権を譲渡するように迫ったのに対して、大国主 の長男、建御名方命 が国譲りに反対し、武甕槌命 (たけみかづちのみこと)と相撲して負けたことから、諏訪まで逃れてその地で王国を築いたという神話にあるということになっている。つまり諏訪氏の祖先はスサノオ一族であり、これら産鉄系の血脈を武田に植え付けることにより周囲の蝦夷(金山衆)と協力体制を築いていったのではないかと推測できる。

 山本勘助とは、こうした産鉄系民族のまとめ役であり、おそらく個人であったとは思う。

しかし武田が源氏を名乗る以上背景の蝦夷の民族は表には出せず、山本勘助の知略によるものと書き換えられたのではないか?さらにこの民族の故郷はおそらく東三河であり、はるか昔は南アラビアのシュメール系の民族だと想像される。表に出せない勘助の肖像画は、彼らの守護神、アラハバキ神の形であらわされ、故郷も民族としての故郷、三河牛久保とされたのではないか?と思われる。