ちいさな私がギターを持つ姿は周りの人から見るとても大変そうで、おそらく小学生か中学生がチェロかコントラバスを抱えているように見えるのかもしれなかった。
「お嬢ちゃん、大丈夫?」おばさんが心配そうに声をかけてくれる。
―― これで何人目だろう
「これはチェロじゃないんです、ギターなんです、それに私は」なんて、言えるわけはないけど、とりあえず人ゴミが途切れたところでそう叫んでみたりする。
声が弾んでいるのが自分でもわかった。
「ケースは毎日見に来てくれていた美音ちゃんへ、サービスね」
ギターは中古だけど、ケースは新品、ピンクのフェイクレザーはちょっと派手だとも思うけど、「美音ちゃんに似合うよ」そう言って選んでくれた店員さんの心遣いは何より嬉しい
―― 帰ったら、早速名前、書かなくちゃ 向井地美音?むかいちみおん?やっぱ、ローマ字だわ
そう 私の心はウキウキしていたんだ。
人間の気持ちってなんでこんなにいい加減で勝手なんだろうと思う
「弾いてみな、美音。歌うだけのギターならそんなに難しくはない コーヒー二杯も飲んでるうちに弾けるようになる」
そう言ってくれたのは行きつけの喫茶店のマスター
あまり自分を語らないひとなので、詳細はわからないけど,麻友さんによると若いころは音楽業界ではかなり名の知れた人だったらしい。お客さんに業界っぽい人が多くみられるのはそのせいかもしれない。
「とりあえず、ここでギターと遊びながら、コードを覚えたらいい 自分のギターを持つのはそれからでもいい、まぁ、お金がありゃあ、話はべつだけど」
そう言って、自慢のあごひげをさすりながら、マスターはいたずらっぽく笑った。
「きれいな声だ」そうも言ってくれた
色を失いかけていた私の周りの景色は突然、鮮やかで艶やかな色を放ち始めている。
いつもは切なくなる散りゆく桜さえ、風に舞うその花びらたちに命の息吹を感じてしまう。
そう、私は知ってしまった。人の喜びや悲しみ、それらをカメラで切り撮ることよりも、歌や音楽で様々な思いを伝えることのほうがずっとずっと楽しいんだということを。
「人の幸せばっかり撮って、それであんたはほんまにええんか!」
さや姉が言った、本当の意味はまだわからない。けどあなたのその言葉で私は走り始めた。八ミリカメラはもう押入れの奥深く、もしかしたら、もう触ることもないかもしれない。
「あなたのせいだよ、さや姉」
空に向かって、そう叫んでみた
「おねえちゃん、大丈夫、持ってあげようか?」
―― また声をかけられた・・だから、チェロじゃないんですって・・
そんなことは全然知らなかった。私が美音の歌声を初めて耳にするのはもう少し後のことだった。
「で、わたしには何のメリットがあるのかな、奈々ちゃん」
「なぁーちゃんでいいです」
「じゃあ、私もさしこだ、なぁーちゃん」
この人はもう私たちの味方。岡田奈々はそう確信しているようだった。
「さしこさんはどうしてこの大学に入ったんですか?」
実は私もその事には少なからず興味があった。うちの大学は都内の他の大学に比べると比較的小規模な大学で、クリスチャン系で保守的。お嬢ちゃんお坊ちゃまが通う学舎を絵に描いたような大学。
彼女が来るまでは学生運動とは全く無縁で、集会どころかビラを配る学生の姿さえ見ることはなかった。
なんであの子、うちの大学に入って来たんだろうね、麻友さんが彼女を見る度にそう言っていたのを思い出す。
「みんな聞くのよね、そうやって」
そう言ってさしこは少し西日が差しはじめた窓の方に目を向けた。
そこからみえる煉瓦づくりの正門を背にした大きな楡の木
大学のパンフレットの表紙も飾っているその木をさしこが初めて見たのは高校三年の夏休み
オープンスクールを利用して大学を訪れた時だった。
「あの木を見て思ったのよ。私はここで高校時代を取り返す、私の三年間をここの4年間でちゃらにする。あの木の下で友達と他愛のないことでふざけあったり、お弁当食べたり、勉強したり、時には恋ばなもあるかもしれない・・」
「いじめにあってたんですか?さしこさんは」
「奈々!}
思わず奈々の口に手を当てた。
「いいのよ、さや姉。でもその逆」
いつの間にか私はさや姉と呼ばれていた。彼女がここに来てからまだ一時間も経っていない。
私の人生のなかでさや姉と呼ばれたのはこの時が最速だった。
「やりたいことばっかりやってた、地元の大分では。もともと打たれ弱いんだよ、私はこう見えて。だからやられる前にやる、いじめられる前にいじめてた。
なんにもしてないおとなしい子に、ただルージュを塗って来ただけでみんなでしかとしたり、
髪形を気に食わないから、校舎の裏に呼び出したり。そんな事ばっかり、学校側に目をつけられない程度にやってた。陰湿だよね。けど私はもう前へ進むしかなかった、自分を守る為に。
卒業の時、クラスの子の一人に、元気でねって声かけたら、何も言わずに頬っぺたをはたかれた。あんたのことは死んでも忘れないからって。その時のその子の顔は今でも忘れない。
それでぼうっとしてて、気が付いたらもう私の周りには誰もいなかった。窓の外を見たらその子はみんなに囲まれて写真撮ったりふざけあったりしてるのよ。みんなが私を罵り嘲笑っているように見えた。その時の私の絶望感と敗北感、分る?あなたたちに。」
「分かる・・・ような気がする」
思わず出た言葉に自分でも驚いた。
「さや姉」
奈々の驚く顔を横目で見ながらさしこが小さな声で笑った
「だよね、いじめてそうだもんね、あんた」
「逆や、あんたの気持ちやない、その子の気持ちがわかるんや」
「・・・」
「あんたがその日に味わった気持ちを、その子は三年間、ずっと受け続けてきたんや」
言いすぎたのかもしれない、そう思って奈々の目を見た。奈々はうるんだ瞳で私をにらむ。
けどいじめた人間といじめられた人間、その間にある垣根は奈々が想うほど簡単なものじゃない。いじめた人間がいくらその事をちゃらにしようとしても、いじめられた人間は死ぬまで忘れない、その顔も、そしてされたことも。
「そうよ、さや姉。私は逃げてきたのよ、この大学に、東京に。あの日を忘れるために、あの日のあの子の顔を忘れる為に」
「・・・」
「あの楡の木の下でさしこって、呼ばれたかったのよ」
「指原さん・・」
「だから、なぁーちゃん、さしこでいいって」
「さしこさん・・」
もうそれ以上、その時は何もさしこは話さなかったし私たちも聞かなかった。のちに親しくなってからさしこはこう語った
―― いたのよ、大分の高校から来た人間が。ほんの数人だけど。で、いいふらした、私がいじめの常習犯だって、大分のいじめの女王だって、あることないこと、いっぱい尾ひれを付けてね。大学ってさぁ、もう大人だから、高校みたいないじめはないんだよね。
でも私が教室にはいったらはっきりわかるのよ、空気がとまるのが。音がなくなるのよ、私の周りだけ。あとはおきまり、流されるように学生運動に入っていった。どう、絵に描いたような青春ドラマでしょ
ハッピーエンドにはなりそうにないけどね
さしこは、今は何とも思ってないよ、そう言ってその話を笑い飛ばした。
けど彼女は二度と私たちの前でその話をすることはなかった。
~to be continue