勘違いしているひと、忘れている人が多いのですが


戦中戦後の犯罪被害で見れば、朝鮮人と日本人の関係でいうと

明らかに日本人の方が被害者なんだが・・・


第2次大戦後を扱った日本の小説、米の推せん図書採択に韓人が反発

http://japanese.joins.com/article/article.php?aid=83559&servcode=400&sectcode=400

(中央日報)



ある日本人が書いた小説で米国内韓人の保護者らが声を上げている。


問題の小説は20年前、ヨーコ・カワシマ・ワトキンズ氏が書いた『竹の森遠く(So far from the Bamboo Grove)』。


日帝敗亡直後、韓国内の日本人たちの受難を書いた本だ。

第2次大戦以前当時、韓国に住んでいた著者は、日本が戦争で負けて本国に帰るとき、自分が見たり経験したりした悲劇を土台に小説を書いたという。当時11歳だった彼女は韓国人たちによって日本人たちが無惨に殺害、レイプされる場面を目撃したと、小説にはこうした内容が書かれている。


問題はこの小説が数年前から米国の中学校の推せん図書60冊に入っているという点だ。この事実を知ったボストンやニューヨークなどに住む韓人の保護者らが教育当局に強く抗議を始めた。子供たちがこの本しか読まなかった場合、残酷な日本の植民地統治は全く知らず、韓国人に迫害された日本人たちの話だけを知ることになるという論理だ。


誤った歴史認識を持ってしまう可能性のあるこの小説を、学校から退出させようという運動は昨年も起こった。ニューヨーク州にあるライカントリーデイスクールの場合は非常に成功的だった。昨年、この学校の6年生の韓人女子児童が問題の小説が英語の推せん図書に含まれた事実を知り、自ら授業をボイコットした。


娘の授業の拒否理由を知った親は学校側に説明し、一理あると判断した学校側はこの本を推せん図書から除外した。 ボストンでは韓人保護者たちの抗議が続くと地域教育委まで出た。マサチューセッツ州ドーバー・シェルボーン地域教育委員会は論議の末、2日、この本を推せん図書に含むかについて投票を実施した。


投票の結果、推せん図書から外そうということになった


しかしこうした結果について英語教師らは「戦争の惨酷さをよく表した作品」として反発した。ここに他の人種の保護者たちが加勢し、投票はなかったことになってしまった。


韓人たちが多く暮らすカリフォルニア州でもサンフランシスコ韓国教育院を中心に最近ボイコット運動が始まっている。教育院は現在、北部カリフォルニア州の学校を対象に実態の調査も並行して行っているということだ。


ニューヨーク=ナム・ジョンホ特派員



この話題は元々元旦に聯合ニュースが取り上げています。


美学校, 韓国歪曲本教材使用可否論難

http://www.yonhapnews.co.kr/international/2007/01/01/0601080100AKR20070101001100071.HTML



(ワシントン=聨合)

米国国内の中学校で推奨図書として使われている日本人作家の 小説が韓国を歪曲したという批判を受けて、教材使用の可否に対する表決が実施される予 定だ、とボストングローブ誌が31日報道した。


問題の本は日本人ヨウコ・カワシマ・ワトキンズ(Yoko Kawashima Watkins)さんが書い た「竹木をはるか離れて(So Far from the Bamboo Grove)」と言う自伝的小説で第二次大 戦以前、当時の韓国に住んでいた著者が家族と一緒に日本へ逃げるところから始まり、貧 乏の中で悲劇的に生きて行く内容を記している。


当時11歳だったワトキンズさんは満州で官吏をしていたお父さんのため、敗戦とともに韓 国人らに追い回されて日本へ逃げ、韓国を抜けだす過程で強姦と人々が死んで行くのを目撃したと書いている。 この本は戦争の残酷性を描いたという点が高く評価されて合計60冊に達する米国国内5~ 8年生の学生たちの推奨図書に含まれたが、韓国関連部分を歪曲したという学父兄たちの 抗議が相次いで教材としての適合性可否が俎上に上がったと新聞は指摘した。


マサチューセッツ州のドーバー・シェルボーン地域文教委員会(The Dover-SherbornRegional School Committee)は、6年生の学生たちの教材として使われているこの本をず っと使うか否かに対する表決を来る2日実施する予定だ、と同紙は伝えた


同委員会は教師 と官吏などから構成されたあるパネルから、この本を教材目録から除いてほしいという申 し入れを去年11月に受けて以後、これに対する議論を続けて来た。 教師らの申し入れを支持するペリー・デービス(Perry Davis)校長はこの本と関連して受 けとった50余通の抗議メールを文教委員会に提出すると明らかにした。


相当数の学父兄た ちは、この本が日本の残酷な植民統治に対しては言及しないまま、韓国人らを悪い人々と 描いていると批判しており、30余年間の日帝植民統治期間に数多くの韓国人らが死んだり 怪我をして、強制労働にあったと同紙は指摘した。しかし、一部の学父兄と学生たちはこ の本が全般的に戦争の残酷性をよく描いた良い教材と主張している、と同紙は付け加えた。


そのボストングローブといえば定期的に意味不明な反日キャンペーンを展開することで有名ですが

(しかしキャンペーン以外では何故か親日記事も多い)その該当記事は


School board to vote on Korea book

http://www.boston.com/news/local/articles/2006/12/31/school_board_to_vote_on_korea_book/


一部抜粋



The "fictionalized autobiography脚色されている自叙伝)" was written by Yoko Kawashima Watkins, whose family lived in Korea during the war while her father, a Japanese government official, worked(日本政府の役人) in Manchuria.


After the war, Japanese citizens were forced out of Korea, which they had occupied for more than three decades. Many thousands of Koreans had been killed or wounded or drafted into forced labor during the occupation.

何千人もの韓国人が、強制労働で殺傷され、または徴兵されていた。



適当訳ですがfictionalizedってのはやっぱり脚色ですよね?

で父親が満州の日本政府役人で・・・その前に何千人も韓国人が強制労働で殺傷されて?

(どこにそんな記録があるのでしょう)


こんなキャプション入ってまともな記事になると思っているのでしょうか?


その前に・・・


引揚時の邦人に対する蛮行は南北朝鮮人そしてソ連軍によって行われています。

「韓国人」ではなく「朝鮮人」と「ソ連人」です。


国・朝鮮と日本人 若槻泰雄氏 89年 原書房

より引用


惨憺たる北鮮引揚げ日本の連合国への降伏により、日本軍は38度線を境に、南鮮はアメリカ軍、北鮮はソ連軍へ降伏するように指令された。


南鮮の日本人は終戦の年の暮れまでにほとんどすべて引揚げたが、北鮮では約31~2万の日本人がそのまま残っていた。もともと北鮮に住んでいた27~8万と、満州から戦火をさけて逃げてきた4万人である。北鮮にはいってきたソ連軍は、満州におけると同様、略奪、放火、殺人、暴行、強姦をほしいままにし、在留日本人は一瞬にして奈落の底に投じられることになった。白昼、妻は夫の前で犯され、泣き叫ぶセーラー服の女学生はソ連軍のトラックで集団的にら致された。反抗したもの、暴行を阻止しようとしたものは容赦なく射殺された。


「各地の凄惨な記録は読むにたえない」と、『朝鮮終戦の記録』の著者森田芳夫氏は書いている。それらは主としてソ連軍兵士によって行なわれたことであり、また占領地の住民の保護にあたるべきソ連軍当局の責任であることは明らかだが、ソ連兵に触発された朝鮮人の暴行も多かったし、ソ連軍を背景に行政権を掌握した北鮮の人民委員会も、その責任はまぬかれない。


たとえば3000名中、その半数が死亡した富坪の避難民の情況を調査するため派遣された咸鏡南道人民委員会検察部、李相北情報課長自身、次のように報告している。


…かれら(在留日本人)の大部分は、途中において衣類、寝具等を剥奪され、零細なる金銭と着衣のみにて咸興市内に殺到したるも…


われわれは36年間の日帝の非人道的支配に反発し、立場が逆になった日本人全般に対する民族的虐待という、ごく無意識のうちにファッショ的誤謬をおかしたことを告白せざるを得ない。


… 駅前に雲集せる三千余名の避難民を空砲と銃剣を擬して、即時咸興市外脱出を強要し、市外に追放した。その結果、断え間なく降りつづいた雨中の川辺と路傍に野宿し、極度の困憊(こんぱい)と栄養不良を激成し、… 富坪避難民の宿舎は実にのろわれたる存在である。


それは実に煤煙と、あまりの悲惨さに涙を禁じ得ない飢餓の村、死滅の村なり。襲いくる寒波を防ぐため戸窓はたらず、かますで封鎖され、白昼でも凄惨の気に満ちた暗黒の病窟なり、それは避難民を救護する宿舎ではなく、のろいを受くる民族のまとめられた死滅の地獄絵図にして、老幼と男女を問わず、蒼白な顔、幽霊のようにうごめくかれらは皮と骨となり、足はきかず、立つときは全身を支えることもできず、ぶるぶるふるい、子供たちは伏して泣す。無数の病める半死体はうめきながらかますのなかに仰臥しており、暗黒の中にむせびつつ、


……そこに坐しているのは実に地獄の縮図以外の何ものにもあらず…

(森田芳夫『朝鮮終戦の記録』)


一日も早く引揚げさせてくれという要望はソ連軍当局によって無視され、日本人はただただ餓死を待つよりほかない状況に追い込まれた。こうして在留日本人社会では「38度線さえ越えれば」というのが唯一の悲願となった。やせこけた身体に乞食のようなボロをまとい、山を越え谷を歩き強盗にささやかな所持品を奪われ、歩哨の銃弾にたおれ、そして時には泣き叫ぶ子供の口をふさいで死にいたらしめるまでして、人々は南にたどりついたのである。38度線は朝鮮民族にとっては何十万の血の流れた同胞争闘の境界線となったが、20万を超える日本人にとってもまた、血と恨みにいろどられた『天国と地獄の境』となったのである。


ようはソ連当局の威を借りて好き勝手やったわけですが

南鮮も同じ。

米軍当局も朝鮮人の狼藉を見てみぬフリ。


>南鮮の日本人は終戦の年の暮れまでにほとんどすべて引揚げたが


とさらりと書かれていますが南鮮もまたしかり。


これは


われわれは36年間の日帝の非人道的支配に反発し、立場が逆になった日本人全般に対する民族的虐待という、

ごく無意識のうちにファッショ的誤謬をおかしたことを告白せざるを得ない。


という「恨」がどうのこうのの次元ではありません。


『親日派のための弁明』の未翻訳部分・・・・
http://ameblo.jp/disclo/entry-10020482754.html



私は生粋の韓国人だ。 でも,韓国人というものがあまりにも情けなく,えいっと殺してしまいたいときがある。 なぜ日本の蛮行は暴くのに,自分たちの汚い利己心と低劣な鍋根性には目をつぶるのか?


  日帝時代,朝鮮に移り住んだ日本人の中には,明らかに立派な人々も多かった。 ところが, 和夫一家殺害事件のように,韓国人は自分たちの間違いを, 日本がやったから俺たちもやったんだというふうに弁明し,事件を矮小化,隠蔽しようと躍起になっている。 和夫の亡骸は,釜山に大切に移葬され,毎年,日本人の墓参りが絶えない。 以下は,和夫夫婦が死んだ日,ふだん彼から深い恩を受けていた金ソンス君が見聞きしたことを 記録した証言だ。 事件当時,金ソンス君も加害者だったが,殺害行為には同調しなかったそうだ。


 和夫氏は,日帝時代によく見られた,慶尚道地方の日本人地主だった。地主とはいうものの, 和夫の家族は日本政府の朝鮮移住政策にしたがって, 乗り気ではなかった朝鮮生活を始めたものだ。 公務員だった和夫は,政府の命令にしたがって仕方なく朝鮮へ赴任したのだ。 そのころの日本は,一種の軍事独裁体制で,政府の命令に従わなければすぐに 売国奴として排斥されそうな雰囲気があったという。


当時,朝鮮にいた日本人地主のなかには, 朝鮮人の小作人たちから,法の規定以上の小作料を取り立てる, 怪しからぬ人々もいたが, ふだんから人情味の厚かった和夫は, 小作料を収穫全体の十分の一とし, 村人たちを家族のようにみなして喜びも悲しみもともにした。 自分たちの生活が困らなかったので,総督府の法令にしたがって, やむをえず受け取らなければならない最小限の小作料だけをとったのだった。


貧しい小作人が食料がないと泣きつけば,喜んで食べるものを分けてやったし, 村で誰かの葬礼があれば,家族総出で駆けつけ,食事の支度はもちろん,自ら慟哭して, 悲しみを分かちあうこともあった。 このように,和夫は人間への温かい愛情をもった,真の人間だった


 また,和夫は近くに行き場のない孤児がいると,連れ帰って面倒を見ていたが, その数は,一人,二人と増え,四,五年たつといつのまにか私設孤児院規模にまで増えてしまった。 けれども,和夫夫婦はこれら孤児たちを家族のように愛し, 自ら喜んで彼らの父,母を称した。和夫の家族は,ふだん,このように朝鮮人を愛し, 日本軍国主義の簒奪に憤慨するような人々だった。


しかし,彼らは,日本の天皇が降伏宣言をした1945年8月15日, 自分たちが育てた朝鮮人孤児たちにより,凄惨に殺害されたのだ。 その日,まさに万歳の声とともに,太極旗が波のように風になびきつつ,朝鮮人の世がやって来た。 育て,東京帝国大学に留学までさせたAの主導下に,彼の家で教育を受け,育ち,成人した青神は, 自分が受けるべき朝鮮人の愛を横取りしたと,和夫君に嫉妬したのか?  彼がわが子のように年たちが,斧と鍬,スコップを手に,和夫のもとに押しかけた。 そのとき現場にいた金ソンス君は,次のように証言している。 和夫:(穏やかな目で)なんでこんなことを,子どもたちよ。 A:チョッパリ! 日本へ失せろ,失せちまえ


和夫:(怒ったような声で)私が,お前たちにどんな間違いをしたというんだ。 お前たち,みなが私の息子だ。私はこの家の家長であり,お前たちの親だ。 お前たちの祖国が解放されたことは,私もふだんから待ち望んできたことだ。 踊りでも踊りたい気分の日に,なんだって凶器をもって私の所に詰めかけたりするんだ。 私は決してお前たちをそんなふうに教育したおぼえはない。 (涙を流しながら)ほんとうに悲しいことだ。朝鮮の息子たちよ。


私が愛を傾け,育ててきた結果は,つまるところ日本人と朝鮮人は融和できないということなのか。 お前たちが望むなら,帰ってやるわ。 A:意味深長な目配せをBに送る(財産をすっかり処分して帰ったら, おれたちはどうやって食っていくんだ?) B:死ね,チョッパリ,シッパルノマ。  間髪入れず鍬が,和夫の後頭部に振り下ろされたのと同時に,数多くのスコップと斧が 彼の体をずたずたに引き裂きはじめた。 このとき,和夫の妻が我慢できずに飛び出してきた。 それまで黙っていたCは,和夫の妻を見て,彼女の長い髪をつかみ, 庭の奥まったところに引きずっていった。 そしてなんと13人がかりで, ほんの一週間前までお母さんとして恭しく仕えていた彼女を,強姦しはじめた。 (金ソンス君は,この期に及んで自分が止めに入ったら,自分も殺されただろうと言った)。


強姦に耐えられなかった彼女は,行為の途中で死亡し, Dは,ふだんお母さんと呼んでいた彼女の全身を滅多刺しにするだけでは足りず, 内臓をひきずり出して,まき散らした。  和夫には,一人の幼い娘がいた。ふだん模範的でいい子だったヒミコさんは, 放課後,家に帰ってきて,両親の身に起こった惨状を見,気が触れてしまった。 ヒミコが何日間も慟哭する声に,近隣住民たちは眠れなかったそうだ。 その後,孤児になったヒミコは,食べ物を乞おうと,その付近をさまよったが, 朝鮮人は誰一人彼女に目もくれず,知らないふりをした。


結局,彼女は9日後,村の橋の下でやせ衰えた死体となって発見された。 当時,ヒミコは小学校6年生の幼子だった。 和夫の財産は,勇猛で愛国心に燃えたつ朝鮮の青年たちの手にそっくり渡り, この事件は村人たちの沈黙の中,しだいに忘れられて行った。



ようは・・・・

理由はなんだっていいのでしょう。


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amebloではtableタグが禁止タグだと思っていましたが・・違った・・

「見難い」とご指摘いただいた皆さん、すいませんでした。

こんどから引用は見やすくします^^