亀田バッシングもそろそろ本題に入っていきそうな雰囲気です。

講演会の「全国青少年健全育成会」ですが

2ちゃんねらーの一部が掲示板を荒らしたようで

一悶着あったようです。

しかしそれにしてはその対応の書き込みを見ましたら

「全国青少年健全育成会」は任侠団体その物なんですね。

「全国青少年健全育成会」ですがコンセプトはおおいに

結構ではありませんか。

でも何故警視庁がマークしているのでしょうか?


英親分はどうやら表向きは亀田家を見放したみたいですが

ちいさい子供の時から面倒見ていたんでしょう?

なら説教して悪い部分は反省させればいいのではないでしょうか?

私は亀田君に文句があるのは礼儀だけです。

少なくとも初対面、目上には敬語を使うように説諭願います。

それとも英親分にもタメ口なんでしょうか?

とにかく「全国青少年健全育成会」なんですから

見捨てずに面倒見てやってください・・・・と思ったり。


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「全国青少年健全育成会」ですが

任侠の世界の人が社会のために一肌脱ぐっていうのは別に文句は

ありませんが任侠の矜持はいいですが体裁を持ち込んでは

いかんのじゃないかと。

「一肌脱ぐ」ってのは任侠の裏言葉で言うように

「紋々をいったん脱ぐ」っていう意味もあるとか。

むかし同志社大学ってのが設立される時

資金面や何やで新島襄(だったかな?)が苦労している時に

全面的に協力したのが会津の小鉄の親分さんだったわけですが

その時はまさに紳士的で出来るだけ表に出ないようにされたそうです。

顕彰碑やなにやも断ったそうな。

まさに「一肌脱いだ」ってやつです。

清水の次郎長も晩年の活躍は任侠の矜持は持っても体裁は

捨てたと。


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相手見てから喧嘩売れよ!ここを何処だと思ってんだ?

顔が見えないから好き勝手しやがって!寛大な処置!?

きちんと当会本部まで来て言うことでしょ?

掲示板を通じて謝った位で済む問題じゃねえぞ。

分かったら、とっとと支度して全員連れて詫び入れに来い!


これは会の人の発言でしょうか?

「相手見てから喧嘩売れ」?

まずは何事も穏便に。

代紋は控えめに。


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kame文春


さて明日の文春ですが「亀田」記事がTOPです。

ランダエタ 独占激白
「全ては仕組まれていた」「父親のふるまいがボクシングをダメにする!」
▼「勝利の立役者」韓国人ジャッジを直撃!

▼「薬物オレンジ」協栄ジム「疑惑の世界戦 史」

▼高視聴率52%が取れればいい「TBSは二度死んだ

▼「自己破産」父・史郎氏を支え た「黒い人脈」
http://www.bunshun.co.jp/mag/shukanbunshun/index.htm


がこの下の

【GHQから奪還『A級戦犯七人の遺骨」】

の方に目が行きます。

これも有名な話ですが知らない人は是非一読ください。

所謂A級戦犯の最後とはどのようなものであったか。

GHQはご遺族に遺骨も渡すつもりはなかったんですねぇ。


以下参照-----------


A級戦犯として十三階段を上った七人の遺体は、横浜の久保山火葬場で
火葬にされた。昭和二十三年十二月二十三日午前零時のことである。そ
れらの遺骨は米軍兵たちがシャベルで、コンクリート混合作業のように
して、もみくちゃにして、誰の遺骨が分明ならぬ状態にしている。右翼
や元軍人がA級戦犯の遺骨を奪うことを恐れたからである。

そうえでGHQ(占領軍)は「A級戦犯の遺骨は太平洋に捨てた」と発
表した。多くの日本人はその説を信じたのだが、事実は多少違う。

三文字正平、林逸郎両弁護人らの密計によって、遺骨の相当量は日本人
の手によって運びだされている。火葬場に隣接する興善寺の住職が両弁
護人の意を受けて、火葬後の暗夜、米兵たちの油断をねらって遺骨を持
ち去り、それから十年間、興善寺に秘匿されていた。米兵に見つかれば、
射殺されるのを覚悟の住職の働きであったし、占領下では、どこに通報
者がいるか分からない。

昭和三十四年になって七人の遺髪は、東京都江戸川区一之江の国柱会霊
廟に納められ、その遺骨は興善寺から愛知県蒲郡三ヶ根山の墓地に合祀
され、同時に熱海市伊豆山の興亜観音堂に七烈士の碑が建立されている。
六〇年安保の前年のことになる。七人の遺骨には違いないが、粉骨となっ
ていて区別がつかない・・・それが真相である。(古澤 襄氏)

七氏は昭和23年12月23日未明、巣鴨で絞首刑を執行された。米中ソの
三国代表が立ち会い、陛下の万歳を三唱して台上の露と消えた。

この時の処刑係は


米軍のマルチン・ルーサー・キング軍曹、


後の黒人運動家の牧師であった。
(注:後のノーベル賞のキング牧師。異論があるらしいが

キング氏自身が極東での処刑係辞令を屈辱と演説)


昭和35年に三ヶ根山山頂に廟と墓碑が建立された。

ドイツでは処刑された戦犯の骨は粉砕されて飛行機上から吹き飛ばさ
れた。マッカーサー司令部が七氏の遺体も遺骨も家族に渡すつもりがな
いことが判明し、なんとか遺骨だけは手に入れたいと考えた人達がいた。

七氏の火葬は横浜市久保山の火葬場で米軍によって12月23日に行われた。
火葬場は武装した米兵に囲まれ、場内には飛田場長ら4人の日本人係員が
入れたのみだった。彼らは米兵の目を盗んで七氏の遺骨を七つの骨壷に
納めることに成功した。しかし隠した場所に香をたいたため米兵に見つ
かり没収されてしまった。

米兵は遺骨を鉄棒で粉砕、小箱に納めて持ち去り、残りは骨捨て場に遺
棄した。

12月25日夜半、弁護士の三文字正平氏と久保山興禅寺の住職市川伊雄師
は飛田場長と共に遺骨の遺棄された場所に忍び込んだ。骨捨て場という
のはコンクリート製で、骨の投入口は狭く、火掻き棒の先に空き缶をつ
け、苦心のすえ拾い上げた。

遺骨はその後、万一を考え戦死された三文字氏の甥の名前で熱海の興亜
観音に安置されていた。

戦争の責任を極刑で一身にうけ、刑場の露となった殉国者に、日本の世
情は冷たかった。長らく遺骨の埋葬さえ許されず、回向すら人目を避け
て行わなければならなかった。

遺骨は処刑後、関係弁護士や僧侶の必死の活躍により横浜市久保山の
火葬場から密かに取得し熱海市伊豆山中に人知れず祭られていた。

その後遺族、関係者の同意を得て幡豆町の好意により三河湾国定公園の
三ヶ根山頂に埋葬された。遺骨奪取の経緯は碑文に克明に書かれてる。

昭和20年8月15日、わが国の敗戦によって終結した大
東亜戦争の戦争責任を、アメリカ・中国・イギリス・ソ連・オーストラ
リア・カナダ・フランス・ニュージーランド・インド・フィリピンの11
カ国は極東国際軍事裁判を設置して追求することを決定しました。いわ
ゆる東京裁判です。

裁判は事後法により審判され票決によって絞首刑を含む判決がなされ、
昭和23年12月23日末明、絞首刑の判決を受けたA級戦犯とされた七士の絞
首刑が執行されたのです。

また当時としては命がけともいえる火葬場から七士の遺骨を盗み出そう
という話が決まったのは、絞首刑の判決がいい渡された昭和23年11月12
日の午後のことでした。

では、なせこのような計画か決定されたのか。

実は絞首刑の判決を受けた七士の各担当弁護士は、遺体を家族に引き渡
したいとの思いから


マッカーサー司令部を訪問、

請願したが了解を得ることかできなかった


からなのです。

このままでは、遺体はもちろん、遺骨も家族に渡されないことは明白。
そこで数名の有志たちは「せめて遺骨の一部だけでも遺族にお渡しした
い」との一念により、無法とも思える計画を立案しました。無論、その
実行計画は極秘裡に、しかも綿密に策定されることが絶対条件だったの
です。

それには、まず刑の執行日を速やかに探知しなければなリません。そこ
で有志の一人か極東国際軍事裁判に関与した某アメリカ検事に近づき、
ようやく七士の刑の執行日はクリスマスの前日の12月23日、また失葬場
も推察することができました。そこで有志たちは火葬場である横浜市久
保山火葬場の買収工作を行ない成功したのです。

しかし、当日はアメリカの監視が厳重であったために目的を果たせませ
んでしたが、翌24日はクリスマスイブなのでアメリカ人は浮かれて見張
りが手薄になることがわかりました。

当日、木枯らしが吹き荒(すさ)ぶ夜半、黒装束に身を固めた三文宇正
平弁護士と市川伊男(これお)住職は、飛田火葬場長の案内で目的地に
近づきました。穴は暗くても灯火と物音は絶対禁物なのです。見張りを
気にしつつ手さぐりで灰をかき集める作業は想像以上に難事でした。

こうして取得した遺骨は、一時、人目を避けて伊豆山中に安置されてい
ましたが、幾星霜(いくせいそう)を経て、その後遺族をはじめ政財界
その他各方面の有志の賛同と幡豆町の好意を得て、日本の中心地・三河
湾国定公園三ケ根山頂に埋葬して墓石を建立し、昭和35年8月16日、静
かに関係者と遺族が列席して初の慰霊祭が行なわれました。

以来、毎年4月29日「昭和天皇御誕生の日」に慰霊祭を執り行なう中で、
殉国七士廟の存在は多くの人々に知られるところとなり、今日では七士
廟の周辺に大東亜戦争での戦没者を祀る各部隊の慰霊碑が並んでいます。

(「杜父魚だより」から転載)