ジョージ・オーウェル 「一杯のおいしい紅茶」
小野寺健 編訳


紅茶の書籍に出てくるイギリスの作家です。
残念ながら、僕は、詳しいことは知りませんが、
このたび、「有名」なエッセイを読んでみました。

以下、ご参考までに、全文です。


しかし、ブログの体裁上、改行を施しましたので、
あらかじめご了承ください。


もし、実際にお読みになりたい方は、
来週以降、東区元町図書館に行かれると
本書があります。(僕が、返却します♪)


以下、本文です。


手近な料理の本を開いて「紅茶」の項目を探しても、

まず見つからないだろう。
たとえ2~3行かんたんなことは書いてあっても、
いちばん大事ないくつかの点では
何の参考にもならないのが関の山なのだ。


これは妙な話である。
何しろ紅茶といえば、アイルランド、オーストリア、
ニュージーランドまでふくめて、
この国の文明をささえる大黒柱の1つであるばかりか、
その正しいいれかたは大議論の種なのだから。


完全な紅茶のいれかたについては、
わたし自身の処方をざっと考えただけでも、
すくなくとも11項目は譲れない点がある。


そのうちの2点には、大方の賛同を得られるだろうが、
すくなくとも4点は激論の種になるだろう。

以下に11項目、どれをとってもわたしが
ぜったい譲れないものを列挙する。
 
まず第一に、インド産かセイロン産の葉を

使用することが肝心である。


中国産にも、いまのように物のない時代には
バカにできない長所はある。

経済的だし、ミルクなしでも飲めるから。


しかし、これは刺激にとぼしい。
飲んだからといって、頭がよくなったとか、
元気が出た、人生が明るくなったという気分にはならない。


「一杯のおいしい紅茶」というあの心安らぐ言葉を
口にするとき、だれもが考えているのは
例外なくインド産の紅茶なのである。


第二に、紅茶は一度に大量にいれてはいけない。
つまり、ポットでいれることだ。

金属製の大きな紅茶沸かしでいれた紅茶は
かならず不味いし、軍隊の、釜で沸かした紅茶となったら、
油や石灰の臭いまでついてくれる。


ポットは陶磁器、つまり土でできたものでないとだめなのだ。
銀やブリタニア・メタル(スズ、アンチモニー、
銅などによる、銀に似た合金)製のポットでは
不味くなるし、エナメルのポットはなおいけない。


ただし、不思議なことに、最近では
あまりお目にかからない白目(スズが主体の
鉛あんどの合金)のポットは意外にわるくない。


第三に、ポットはあらかじめ温めておくこと。
これにはよくやるようにお湯ですすぐよりも、
ポットを暖炉の棚から突き出ている台にのせて温めるのがいい。


第4に、紅茶は濃いことが肝心。
1リットル強入るポットに縁すれすれまで
入れるとしたら、茶さじ山盛り6杯が適量だろう。

いまのような配給時代には
毎日そんなまねはできないけれども、
1杯の濃い紅茶は20杯のうすい紅茶にまさるというのが、
わたしの持論である。


ほんとうの紅茶好きは濃い紅茶が好きなだけでなく、
年ごとにますます濃いのが好きになっていくもので、
この事実は、老齢年金受給者の配給量に
割増があることでも証明されている。


第5に、葉はじかにポットにいれること。
ストレイナーを使ったり、モスリンの袋にいれたり、
紅茶の葉を封じこめる細工を弄してはいけない。


国によると、紅茶の葉には害があると思って、
葉をつかまえるためにポットの口の下に
小さなバスケットをとりつけたりしているが、
紅茶の葉はかなり飲んでも害はないし、
葉がポットのなかで動けるようにしておかないと、
よく出ないのである。


第6は、ポットのほうを薬缶のそばへ持っていくべきで、
その逆ではだめだということ。

お湯は葉にぶつかる、まさにその瞬間にも
沸騰していなければだめで、
となれば注いでいるあいだも下から炎が
あたっていなければいけないのだ。


そのお湯もはじめから沸かしたものでないと
だめと言う人もいるが、これは影響がないらしい。


第7は、紅茶ができたと、かきまわすか、
さらにいいのはポットをよく揺すって
葉が底におちつくまで待つことである。


第8は、ブレックファースト・カップ
(日本のいわゆるモーニング・カップ)つまり
円筒形のカップを使い、
浅くて平たい形のは使わないことである。


ブレックファースト・カップならたくさん入るし、
平たいカップでは、まだ満足に飲みはじめないうちに、
かならず冷めてしまう。


第9は、紅茶にいれるミルクから
乳脂分をとりのぞくことである。
乳脂が多すぎると紅茶はきまってむかつくような味になる。


第10は、まず紅茶から注げと言うこと。
ここが最大の議論の1つである。
イギリスの家庭はどこでも、
この点をめぐって二派にわかれると言ってもいいだろう。


ミルクが先だという派にも、
なかなか強力な論拠はあるけれど、
わたしの主張には、反論の余地はないだろう。


つまり、紅茶を先に注いでおいて後から
ミルクを注ぎながらかきまわしていれば
その量を正確にかげんできるにの、
逆の順序でやったのではついミルクを入れすぎるではないか。


つぎはいよいよ最後になるが、
紅茶にはーロシア式ではないかぎりー
砂糖を入れてはいけない。

この点は少数派であることくらい、
充分承知している。


しかし、せっかくの紅茶に砂糖をなどいれて
風味を損なってしまうようでは、
どうして紅茶好きを自称できよう。


それなら、塩や胡椒をいれても同じではないか。
紅茶はビール同様、苦いものときまっているのだ。


それを甘くしてしまったら、
もう紅茶を味わっているのではなく、
砂糖を味わっているのにすぎない。

いっそ白湯に砂糖をとかして飲めばいいのである。


紅茶そのものが好きなわけではなく、
ただ温まったり元気がでたりするから飲むので、
苦味を消すには砂糖がなければという人がいる。

こういう愚かな人には、ぜひ忠告したい。

砂糖抜きで飲んでごらんなさい。
まあ、二週間くらい。

まず確実に、
二度と砂糖でぶちこわす気にはなれなくなるから。


紅茶の飲み方をめぐる議論なら、まだまだつきないけれど、
以上でも、この問題がどれほど凝った
複雑なものになっているかはわかるはず。


この他にもティー・ポットの周辺には
不可解な社会的エチケットもあるし
(たとえば、なぜ受け皿で紅茶を飲んではいけないのか)、
運勢を占うとか、客の来る来ないを当てるとか、
兎の餌になるとか、火傷の薬、
カーペットの掃除用といった、
葉の副次的利用法についてもいくらでもかけるだろう。


ただ、ポットを温めておくとか、
かならず沸騰しているお湯を使うといった
細かい点にだけは気をつけて、
使い方さえ上手なら二オンスという乏しい配給量でも
とれるはずの、濃くておいしい20杯の
紅茶だけはしぼりだしたいものである。


(『イヴイニング・スタンダード』1946年1月12日号)

ジョージ・オーウェル
『一杯のおいしい紅茶』
小野寺健 編訳 朔北社 より抜粋。


ジョージ・オーウェル経歴本書裏表紙より

1903年インドに生まれる。
翌年、家族と帰国、イギリスで育つ。
21年イートン校卒業後、
27年までインド警察の警察官としてビルマで勤務。
33年からルポルタージュ『パリ・ロンドン放浪記』、
小説『ビルマの日々』『葉蘭をそよがせよ』
『牧師の娘』などを発表。
36年スペイン戦争に義勇兵として参加。
38年『カタロニア讃歌』発表。
第二次大戦中、BBC放送で働く。
また『トリビューン』誌の文芸部編集主任を勤める。
45年、小説『動物農場』を出版、世界的ベストセラーとなる。
46年、スコットランドのジェラ島に移り住み、
『1984年』を書く。
50年、肺結核のため死去。
本名エリック・ブレア