○○は危険だという人の頭の悪い傾向にきづく | 成功体質のための対話力向上公式ブログ

○○は危険だという人の頭の悪い傾向にきづく

最近ってわけでもないけど、ある種の新しい手法についての検討をするときに、肯定的な意見だけじゃなくて、否定的な意見を見ることがある。

 もっとも、その「両方バランス良く」みるのも最近どうかなーとは思う。

というのは、○○が好き、という人が多ければそれと同じぐらいに否定的な意見も(○○が嫌い、時には大嫌い)というのがあるのがふつーであるからだ。

違う意見(立場)の人はとりあえずたたいておこうというか、ヤフーの知恵袋とかは、時々、「質問」じゃなくて、ただのやっかみというか悪口も結構あったりする。

 

とはいえ、とあるスピ系の「○○は危険だよ」という記事をみて思った感想徒死して、その批判対象のことをよく知りもせずに「○○が危険だ」という人が結構多く(それこそ、口パクじゃないのに「口パク」といって批判される某アイドルのように・・・)別にそんなによく調べなくても、「どうしてそれに真実性を認めるのか?」というプロセスに関していろいろ書いているのに、そこをすっとばして「危険なことは危険だ」ということで、多めの読書量とかは関係なく、「あなたの読みには悪意があある」とすら思えてくる。

 

「○○が危険だ」→「どうして危険だと思うの?」とおもいながら読み進めると王往々にして、

「とにかく危険」というほんとにごり推しタイプの「危険」を強調する人もいれば、

「世界征服を企む○○に寄っているから危険」みたいな陰謀説を唱える人もいる。ほぼ検証が難しい。多少頭がいいと、これに尾ひれをつけて多少の真実性を持たせたり、一部のディテールは真実をまぜこむので、信憑性が増すこともあるが、でも、その知識の並べ方のプロセス自体が詐欺師の使う手法だったりする。

もちろん、「○○は危険だ」ということを警鐘を鳴らすのが全部だめだとは全く思わない。時には有益なこともあるからだ。なんでも、無盲目的に信じるのはよくない、というのはそう思う。ただ、その「疑い」も、際限なく疑うのなら、単純にその分野から離れればいいし、「本当かどうか検証してみよう」ではなくて、自分が「だまされるのではないか」という恐れがもとになって関わる態度はあまり肯定的な結果がでるとは思えない。とりあえずは疑いのフィルターを外してみて「それがもし正しいとしたら」というところでしか検証する意味もない気もするのである。大事なのは、自分がそれを利用しようという観点だと思うのです。ぶっとんだ意見がでてくるとそれをつい鵜呑みにするか、完全に拒絶するかどっちかだとおもうが、信じ込んでいる人に取っては「いや、そこまではできなくてもちょっとは・・・」とか思えてしまうのである。私の師匠だったコーチは、「ものをすり抜けられる」まで言い切っていたのでいま思うと「んなばかな」とおもえるけど、でも、その場の雰囲気で、「そこまで、すごいことを持ち出してみんなの歓心(関心でもいいけど)を引きつけたいんだ」ということに気づけてないと、「きっと何かそこに真実性がある」というように思えたり、そこまで、ぶっ飛んではいないことをいわれると「すり抜けるのは無理でも、○○はできそう」などと思えてしまうと、スピ系の支配、被支配関係が成立する。

 

危険なら、どうなるのか?最大どういうデメリット(損失)があるのか、ということを意識すれば、仮にだまされたとしても、仮に危険な目にあったとしてももどりやすいのではないかと思うのです。

コンピュータウィルスを異常なほど恐れる人がたまにいらっしゃいますが、別にコンピュータウィルスに感染しても、そのPCのデータを全部クリアにすればいいだけで、最悪の「損失」は、データが飛んでしまうことだけであって、コンピュータそのものは、再インストールすれば全く問題はない。変なところに感染するのは、再インストール以上のことをしないといけないかもしれないが、最悪新しいコンピュータを購入すればいいだけである。つまり、データをバックアップとって、ソフトを違法じゃなくて、ちゃんとCDとか、再度インストールする手間を惜しまなければ(マックはその点全部完全にバックアップとれるので便利ですよね)別にとうっってことないわけで、必要以上におそれることはないのですが、しかし、ウィルスを必要以上におそれてコンピュータ使わないというのが本末転倒な気がする。そういうウィルスに対するコンピュータ初心者の恐怖心と同じような状態に自分がいると想像してみると、別にスピ系だろうが、コーチングだろうが、「危険」なことは、お金をずっと貢がなくちゃいけないとか、「精神的な支配(被支配)」構造に巻き込まれるとか、ああ、よくあるのは、現実逃避になるぐらいで、でもよくよく考えると、それは、スゲームにはまって、帰り道スマホの画面を見ながらだらだら歩いているサラリーマンとそんなに代わりもない気もする。w 単純時間を「浪費」しているともいえる。別にそれが「趣味」程度なら、何ら問題はなくて本人の時間をどう使おうと本人の自由である。ただ、それが月間10万円以上もゲームに使っているとかだとどうかなーとも思えるだけで(友達だったら注意するでしょう)ギャンブルにはまっている人とにたようなものである。ただ、スピ系でも、コーチングとか、人材開発とかの○○手法のめんどくさいのは、とにかく「群れる」ことで、自分たちのアイデンティティーをつくっている人もいるので、手段になってめんどくさいことをしている人もいるので、往々にして個人の自由をこえて「巻き込まれる」危険はあるとはいえるかもしれない。自分だけで判断しているときよりも、新しい知見が得られる一方、その集団の思考が硬直化したら、同じような考え方をする。まあ、宗教とかで、へんな世界観もっているのと同じであります。宗教でもコーチングでも、○○メソッドでも、どこでも、自分たちを検証しない限りいつでも、思考停止に陥る危険性はあると思う。

 

・・・・ということをつらつら考えてみて、まあ、「自分の限界」に気づける人は、強いんではないかとも思っているのではあります。必要以上に危険性を唱えるのは愚だが、必要以上に怯えるのはもっと愚だと私は思うのであります。