体のゆがみが病気の「原因」だという。
本当にそうだろうか。
僕は、体のゆがみは病気の「結果」ではないかと思っている。
体のゆがみに対して、肉体への力学的なアプローチによって是正することはできる。
それによって、ゆがみに随伴していた症状は緩和ないし消失することもあるだろう。
しかし、原因が取り除かれていないことを忘れてはならない。
病気の原因とは、誤解を恐れずにいえば、「生き方」なのではないか。
だから、この世から病気はなくならない。
なくなったら、この世に人間が存在する意味がないとさえ思う。
ゆがみがあってこそ、人間たりうる。
もしもゆがみのない完全円満な聖人君子のような者ばかりの、のっぺりとした均一の世界があるとして、そこに果たして胸が張り裂けそうな恋愛や、血沸き肉躍る感動や、心揺さぶられる学びがあるだろうか。
いろいろな個性を持った人々が寄り集まり生活するところに、悲喜こもごも無限のドラマが生まれる。
つまり、ゆがみがあるところに人間としての進化向上の契機があるということだ。
「病気は人生をグレードアップさせる」
否、生き方を見直し、その質を向上させるために、いかに病気を経過させるかにかかっている。
「なぜ生まれてきたのか」
それは根源的な生命観、人生観に関わってくる問題だ。
他力によって症状が見えなくなることで、失われてしまう好機があるとするならば、とことん自力で病気を味わい尽くす人生もあっていい。
病気になってしまったのを、自らの怠惰、遺伝子の欠陥と蔑むのは簡単だ。
自己憐憫ひいては自己懲罰。
自分で自分をいじめるくらいなら、向学心旺盛な学徒が進んで課題を選んだと思えばいい。
難題であっても果敢に挑戦するのみ。
たとえ癒えることがなくても、痛みを知れば人にやさしくできる。
病気のない人生は人間を堕落させる。
病気があってこそ輝くのだ。