twitterをみていたところ「囲碁打てます」ステッカーの話題になっていて、「打てます」の定義というか、認識についていろんな意見がありました。

それをみて、ふと思ったことを書きたいと思います。



長野県出身の僕は、スキーが「できます」。


といいながらも、実は生涯で5回くらいしかスキー場に行ったことはないし、いわゆる「ハの字」型・・・プルークというようですが、そういうレベルです。

もう10年以上スキーをしていないし、なだらかな初級コースをノロノロと滑っていただけだけど、僕はスキーが「できます」。

そういう認識を僕がしているから、いいのです。


しかし、世間的には囲碁やスキーに限らず、何事も「できる」と呼ぶことはハードルが高いようです。

AIが囲碁を打てるけれど変な挙動に対する風当たりは相変わらず強いし、自動車の自動運転技術も何か事故が起きた時にけたたましく鳴らされる警鐘は辟易するほどです。

たぶん、人間が過ちを犯す頻度よりも、それらはずっと少ないはずなのだけど。




僕は囲碁入門教室をやっていますが、その中で長考される方がいます。

いろいろと理由はありますが、大きな理由の一つに「失敗するのが嫌だ」という認識があるみたいです。


自分が「できない」ことを認識すると、委縮してしまうのは子どもも大人も一緒です。

その中で「できる」ことを増やしてあげることがやる気につながるし、「できる」ことを見つけてあげるのが教え導く立場にいる人間の仕事だと思います。


同じものを見ても「できる」と言うのか「できない」と言うのかは認識だけの話です。

みんな、もっと「できる」と思うことを増やそうよ、思ったのでした。