浜岡原発の稼働を即刻止めるための要望書、提出報告 | 脱原発の日のブログ

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12月8日は1995年、もんじゅが事故を起こして止まった日。この時、核燃料サイクルと全ての原発を白紙から見直すべきだった。そんな想いでつながる市民の情報共有ブログです。内部被ばくを最低限に抑え原発のない未来をつくろう。(脱原発の日実行委員会 Since 2010年10月)

田村寿満子です。
本日名古屋の中電本社に署名用紙6500筆余りを
提出してきました。
大鹿から参加者  25人(子供含む)
現地集合参加者  約70人余り(子供含む)
大鹿を朝6時半集合、参加者25人のうち8人が
子どもで最年少は6か月の赤ん坊。

5台乗り合わせで出発。途中松川インターの
手前で署名用紙を受け取る。
隣村の女性が前夜の集まりで集めてくれた分として
渡された20人分の署名用紙を車の中で他のと合わせてとじる作業をしながら
おしゃべりに花が咲く。
あまり道に迷うことなく集合場所の栄公園に9時半ころ着く。

名古屋は桜満開。こぶしも咲いていた。
暖かい日差しの下、子どもらはさっそくブランコ
滑り台で遊び始める。
大人も少しきもちに余裕が出て桜の花見。

そのうち飯田組、愛知県組がぞくぞく到着して、次々に届けられる
署名用紙をとじたり、数えたり。
そのときまでに集まった署名総数  6527筆

署名用紙を作る時お手本にさせてもらった西夫妻も応援に顔を
出してくれたり、名古屋で「イラク派兵憲法違反訴訟」をしている
Kさんも駆け付けてくれて総勢70人ほどがぞろぞろと
中電本社の玄関口へ。
すると玄関前にはガードマンが立ちはだかって入れてくれない。
気軽に自由に入れるものだと思っていたからびっくり。
ほどなく広報部jのサカイさんと総務部?の青山さんが出てきて
許可?がおり、玄関を入るときにも人数制限されそうになったが、
「みんなせっかく遠いところから来たんだから入れて」と全員入る。

部屋の中のやりとりはまた後日書くことにする。
でも「部屋はないし、30分くらいしか時間がない」と電話で言っていたのに
もう部屋は用意され、1時間の時間を設定してというからまたびっくり。
(原発の安全性をアピールして説得できると思ったのか?)

要望書を読み上げ、要望書として寄せられた手紙を代読したり、
小学生が作文を読み上げ、署名用紙をうず高く積み上げたあと、
中電側は説明と称して、プリントを配って浜岡原発の安全性をPR.しようと
したが、小学生さえも「質問にこたえていない」ともらすような説明ぶり。

いろんな人が声をあげたけれど、あの中電のふたりに届いたのだろうか?
うず高く積まれた署名用紙は本当に水野社長の目に触れるのだろうか?
と疑問をもてば、今日のアクションも署名集めもどれだけ浜岡原発停止に
貢献したか心もとないが、少なくとも今日集まった人たちにはとても元気の
出る一日になったということは確かだと言思う。

「なんとかしなくちゃ」という思いだけで始まった署名活動だけれど、
今回ほど村の隣近所と原発の話で共鳴できたことはなかった。
それは負から始まったとはいえ、今まで信じてもらえなかった原発の怖さを
共有できる時代になったということが大きな変化だし、こんな時代だからこそ
普通の人たちが自分たちの生活だけでなく、土と空気、水を守らないと
もう生きていかれない。放射能まみれの地球になってしまう(しまった?!)という危機感を
共有する時代だということだ。

とまれ、署名を出して中電から出てきたあとにもう一度集まった栄公園の
桜の花は、まるでごほうびのように満開だった。

署名を書いてくれたみなさん、ありがとう!それを集めて送ってくれたり、届けて
くれたみなさんありがとう!集まってくれたみなさんありがとう!
撮影してくれたAちゃんたちありがとう! そして好天と満開の桜ありがとう!

ひとたび浜岡原発が東海地震で壊れてしまったら、中電の社員も含め、私たちみんな
運命共同体なのだから、これからも浜岡原発を止めての声は届け続けよう。

帰ってきたらファックスで署名が送られてきていて、まだ回収していない分も
あるようなので、提出期限をもう少しのばすので、田村まで
できるだけ郵送で送ってください。
本当に浜岡原発を止められるように。



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sumako tamura