司馬遼太郎の短編小説に、萌えろ!語学のロードワーク-zt

「大楽源太郎の生死について」という作品がある。

その中で、ドキッとするような事が書いてある。


表現の細部は異なるが、内容としては以下である。


「大楽源太郎は大した人物ではない。

なぜならば、彼は漢詩が上手であった」



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何故、漢詩が上手だとダメなのか。


司馬は説明する。(細部の表現は覚えてないが)


「漢詩というものは、ある程度の技術を持ってしまえば、作者の志操に関係なく立派なものが出来る。

作者が薄っぺらくても、漢詩という装置が働けば、それなりの人物をつくってしまうのである。」



私は、司馬に全幅の信頼を寄せてはいないが、この「漢詩論」は卓見だと思う。


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古今の詩の語句を無難に並べれば、それなりの立派な詩ができる。

その詩は中身は空虚だが、いかにもといった英雄や賢人ができてしまう。



中国人が大袈裟な立ち居振る舞いをしやすいのは、

一つには、このような「言葉の装置」で、実態の無い感情が昂揚してしまい、

いかにも自らを「大人物」に仕立ててしまうからではないだろうか?