茶の湯にとって最も大切とされる「掛軸」。
 絵師ものもは掛けるのに、なぜ書家のものを掛けないのでしょうか。

 禅語や仏法語の専門家は僧侶です。
 絵師は絵の専門家。
 書家は「字を書く」専門家。

 茶の湯の掛軸にとっては「字の美しさ」ではなく「言葉の意味」に重きを置くため、書家のものではなく、僧侶のもの=墨蹟を掛ける訳です。

 つまり、書家の掛軸は「字の形の作品」であって(書家ですから当たり前です)、「言葉の作品」ではないという点において、異なるものなのです。 ただし、唐の書家の軸は「唐物」として珍重されたことは別の話として添えておきます。

 これは、茶の湯が「仏法を根本とする」ことから始まるものです。
 茶道においては「禅」が強調されていますが、別に禅に限ったことではなく、本願寺(浄土真宗)も茶道にかかわりを持ちますし、法華宗も茶道にかかわりを持っています。

 書家の掛軸、華道の活花、これらは「単独で世界を成すもの」です。
 それ故に茶道との相性はあまり良いとは言えません。

 とはいえ、墨蹟はなかなか高く、ほしい掛軸(言葉や字の形)が手に入りませんので、書家の値ごろな御軸を「お稽古に掛ける」ことは私もします(いずれ墨蹟を買い求めるつもりですが)。

 で、ここからが本題ですが、実は茶人の字はきれいである必要はない……と言われます。
 織部の癖字は殊に有名ですが、和尚たちの字も雄渾であったり、勢いがあったり、全く読めない字から、たおやかなじもあります。

 字は為人(ひととなり)です。

 人が「好きだなぁ~」と思ってくださる字であればよいのです。