この言葉は利休七則の一つで、利休が述べた言葉とされていますが、実は、富阿弥著『仙伝抄』にある言葉であるという記述を見ました。

 調べてみますとこれは、初期のいけばなの伝書で、成立年や編者ともに不明となっています。ただし、謂われとしては「三条家の秘本を文安二年(一四四五)に富阿弥から始めて、七人の受伝者を経て、天文五年(一五三六)に池坊専慈(専応)が相伝した」とされています。広く流布するようになったのは慶長・元和年間(一五九六~一六二四)です。

 この後元禄三年(一六九〇)に『南方録』が著されており、この言葉が利休七則として取り上げられています。

 この富阿弥(ふあみ)なる人物については、調べても『仙伝抄』以外のことは解らなかったのですが、文安年間の人であったであろうことは解ります。華道の大家である池坊の記録は寛正三年(一四六二)に東福寺で池坊専慶が草花数十枝を金瓶に挿し、京都中の好事家の評判を呼んだとされています。

 また、池坊には『花王以来の花伝書』という文明十八年(一四八六)から明応八年(一四九九)までの相伝由来が記されている相伝書があります。成立年がはっきりしているものとしては世界最古のものだそうです。また、『池坊専応口伝』は天文六年(一五三七)に相伝されたものとして現存しています。

 で、面白いのはこの『仙伝抄』には「禁花の事むくけ」ということが著されています。やはり、槿を入れるようになったのは宗旦以後と考えることができそうです。

 また、この言葉は武者小路千家(官休庵)にも伝わっているようですが、それがいつのころからのお話かは解りません。

 『仙伝抄』を一度読んでみる必要がありそうです。