矢筈掛けというのは、矢筈のように柄杓を立てておくことから名づけられた飾り方の名前です。「矢筈立て」とも言います。

 この立て方は、表千家は柄杓の合を上に、裏千家は合を下にするそうですが、この違いはなんだろう?と考えました。表千家が上で、裏千家が下ということよりも、本来は「切留の形に添った」と考える方が合理的ではないか?と考えています。

 裏千家では、合を伏せる理由を、一燈宗室・如心斎のころに、合を伏せると決められたそうですが、表千家では旧に戻したと裏千家では習うそうです。表千家ではどうなんでしょうかね。

 さて、当流では「合の向きを爐・風爐で変える」とします。
 表千家では主に風爐に用い、裏千家では爐にも用います。当流では風爐のものとしながらも、爐でも用いることはできるとします。

 当流や表千家では、初風爐の頃(旧暦四月、新暦5月)や、梅雨明け(旧暦六月、新暦7月)に用いることが多いと言われます。七夕の頃に、取り合わせとして用いられることも多いようです。これは、桑の新芽は梅雨入りから始まり、梅雨明けごろまでとされており、桑の新芽を名残惜しんだとも。
 また、矢筈掛けが弓を表すことから、端午の節句にも用いられることも多いようです。

 「風爐柄杓は合を上にする(空ける)=切留が身削ぎになっている柄杓は合を上にして立てると、柱に角が当てられる」「爐柄杓は合を下にする(伏せる)=切留が皮削ぎになっている柄杓を合を下にして立てると、柱に角が当てられる」ということになります。

 何故、表千家と裏千家で扱いが逆になったのかは他流のこと故、解りかねますが、「道具(形)が変われば扱いが変わる」のが自然ですので、又玄斎(一燈宗室)は、兄の如心斎(天然宗左)と相談された際に、「爐の合は伏せ」と決められたのではないかなぁ?と考えたりします(つまり、爐で用いる規矩を定めた)。しかし、表千家では主に風爐に用いるため、爐の規矩は伝わらなかった(伝えなかった)。また、裏千家では新しく定められた規矩を伝え、爐の規矩が風爐でも用いられるようになった……というのはどうでしょうか。
 もし、詳しい方がいらしたら是非教えてくださいませ(深々)

 ちなみに、柄杓の飾る位置は、表千家・裏千家ともに勝手付ですが、当流は釜付です。つまり、爐・風爐で柄杓の位置が変わります。が、入れ方出し方は同じです。

 当然、差通し(切留が平ら)は用いないですから、考えなくてよいですね^^
 宗徧流などの柄杓は、差通しと同じように切留が平らなので、どうするのか?と考えたところで、はたと気が付きました。そう、宗徧は宗旦四天王であり、仙叟宗室が床に用い、如心斎が点前に用いたとされますから(又玄斎は如心斎の弟で、仙叟宗室の養子)、宗徧流に桑小卓を伝えてはいないはずですね(のち、取り入れているかもしれませんが)。

 こうしたことからも茶道の合理性というものを再認識させてくれるなぁ……と思った次第です^^