知人の裏千家の方から坐忘斎宗匠の言葉を教えていただきました。それは「場でなく、恰好でなく」というもの(裏千家HP「今月のことば」より)。

 ここに書かれていない(省略されているのは)のは「心でするもの」ということではないかと思います。

 とかく茶道具というと、やれ「水指が~、茶盌が~、棗が~、棚が~」となりがちですが、これ、本当は間違っています。当流の家元も仰いますが「御軸が決まらなければ、道具立てはできない」のです。

 これは、「客を迎えるおもてなしのテーマ=心」が掛軸だからです。
 ここが決まるとあとは自然と取り合わせが決まります。掛軸には物語があり、主題がしっかりしていれば、道具選びに迷いはでないのです。もちろん、自分の好みというものがありますので、多少の幅はありますけれども。

「場ではなく」というのは、広義にとらえれば「茶室でなくとも」ともいえます。つまり、江戸間であっても、テーブルであっても、京間であっても、板間であっても、茶道はできるということです。

 ただし、これは「京間での規矩があって」のことです。
 その規矩の本質を弁(わきま)えていないと、江戸間になったとたん「置き方がおかしい」状態になってしまいますけれども(笑)

 自宅に茶室がなくても、自宅に稽古場がなくても、例えば知り合いの家の和室を借りて風爐だけで稽古だってできます。置炉だってあります。公民館や児童館でやることだってできる訳です。
 また、私などは、御弟子さんたちに「教えるようになったら、場所がなければウチをお使いなさい」と言っていますが、自分の親先生にお願いして教場をお借りすることだってできるかと思います。

「恰好でなく」というのは、「和服でなければだめということはない」ということではないでしょうか。
 まぁ、ミニスカートやショートパンツ、短パン、ジーンズやジャージで点前をされるのはどうかと思いますが、それだって、自宅で稽古しているのなら特別構わないのではないか?と思います(私は必ず和服に着替えてからやりますが)。洋服であろうが、和服であろうが、それはそれでよいと思うのです。ただし、教授者として、生徒が「自慢できる先生」でありつづけることは大変なことですが(笑)

 大切なことは「心」。
 場所が喫茶店の片隅であろうが、自宅の立派な茶室であろうが、例えばお寺の茶寮であろうが、「大変さに差などない」筈です。場所を借りるには場所を借りるなりの苦労があり、自宅の茶室を建てるには建てるなりの、代々の茶室を維持するには維持するなりの苦労があり、それに大小はありません。そして、結局のところ「生徒」や「弟子」に教える礼儀や作法に「略式」はありえません。

 というのは、点前を略することはできても、作法を略することはできないからです。茶室で、正坐でなければ正式な礼儀作法を身に着けられないというのであれば、その茶室は京間の丸目でなければなりません。数寄屋造でなければなりません。書院の真之真から、草庵の草之草まで九つの茶室を自宅に持つなど、ありえません。八爐だって、なかなかすべての点前を教えることは市井の教授者であっては難しいとされている訳ですから、自宅に茶室が一つあるぐらいで、大上段に構えて上から目線で「テーブル茶道と茶道教室は違う」などと述べるのは如何なものか?と思うのです。

 多くの方から「いろいろ学ばせていただいております」とありがたいお言葉を頂戴いたしますが、私とてまだまだ修道の身、学ぶことはこれからもたくさんあると思っております。

 接してくださる方は皆師匠と思って、多くのことを学ばせていただきたいです。特に、他流の方の点前や知識は、流儀への理解を深めることに大いに役立っておりますから、本当に感謝しております。この場を借りて御礼申し上げたいと存じます。

「はぢをすて人に物とひ習ふべしこれぞ上手のもとゐなりける 利休」