礼法とはなんでしょうか。「礼儀のきまりや作法」のことで、襖の開け閉め、歩き方、御辞儀の仕方、立居振舞といったものです。これに加え、法令・制度・風俗・習慣・官職・儀式・装束などの諸事を有職故実(ゆうそくこじつ)特に武家の故実を武家故実(ぶけこじつ)と言います。

 この礼法というのは、宮中の公家の礼法から始まりました。平安中期から先例を伝える知識の体系化が進んで、藤原忠平が儀礼体系をまとめ上げ、口伝で子の藤原実頼(小野宮流)と藤原師輔(九条流)に伝えました。五男の師尹(小一条流)も受け継ぎ、のちの御堂流が九条流から岐れています。院政期に入ると源師頼を祖とする土御門流(村上源氏)と源有仁を祖とする花園流(閑院流)もあったそうですが、官司請負制(※)が発生すると、公家で有職故実を司った(家職とした)のは、九条流の大徳寺家と御堂流の大炊御門家の二家でした。

 ※官職を世襲化し特定の家が受け継いでいくこと

 有職故実は、宮中においての礼法であり、家々で煩く守るようなものではなかったことが指摘されています。

 しかし、武家が台頭してくると、宮中にも出入りする武家も出始め、武家も故実を必要としはじめます。これに伴い公家の中で武官の故実を司っていた紀氏と伴氏は衰えました。鎌倉時代にはそれぞれの家が幕府の武家故実を蓄えて行きます。しかし、鎌倉時代は藤原秀郷流の故実が重視され、滋野家(海野家)が弓馬の宗家と謳われていました。

 室町時代になると、足利氏が将軍家となったことで、秀郷流故実よりも義家流故実が重視されるようになり、それに伴い清和源氏系の故実も重視されるようになりました。義満は京都小笠原氏と伊勢家、今川家の三家に故実を司らせました。京都小笠原氏が、将軍家師範となるのは六代義教以降です。これ以後、小笠原家の弓馬故実が重視されました。

 江戸時代になると、北条氏に仕えた縫殿助家と庶流の平兵衛家が故実に関わり、旗本となって幕府の師範となっています。

 明治以降は平兵衛家が小笠原流を司り、教義を一般に弘め、小笠原流礼法としての形を保存します。

 戦国時代に旧家はほぼなくなってしまい、故実が失われたことと、将軍が源氏の棟梁としての役割があったため、小笠原流礼法を必要としたというのが日本の礼法の成立であり、これが、茶道の広まりとともに大衆化していきます。

 茶道や武道などは、この礼法を下地として、それぞれの分野における礼法を定めていますが、結局、小笠原流礼法を素地としていることは間違いなく、実は小笠原流というのは「流儀」ではなく「家伝」であり、最も権威のある礼儀作法であるということになります。

 ただし、宮中などは全くの別物であり、公家の礼法が必要になりますが、明治政府の行った西洋化の影響で、伊勢神宮などの神事以外は洋装化しているのが実情です。

 何度か書かせていただいておりますが、我が師匠なども「私は礼儀作法の先生じゃねぃ!」と仰います。そう、茶道や武道などは「礼儀作法を教えるためのものではない」ということです。

 私は武家の出故、小笠原流を信奉しますし、ここまで礼法を振り返るにあたって、他の流派の名前が基本的にないことに気づかれた方も多いと思いますが、実は、他に流儀などないのです。伊勢流も今川流も、小笠原流の支流である細川流も、吉良流も既に断絶しています。

 現代に残っている日本の礼は宮中の有職故実を除いて「小笠原流」しかありません。

 有職故実を除いては小笠原流礼法しかないのです。
 有職故実を除いては小笠原流礼法しかないのです。

 大事なことなので三回言いました(笑)