父・『河野昭一』という人。
12月にはいり 父のために訪問してくださる方々もひとまず落ち着いた感じになりました
皆さま日本各地 本当に遠くから足を運んでいただきました
父は植物の研究はもちろん 全国の自然保護にも尽力をしてきたのですが
それ以外のパワフルなおもしろ人生をすべて紹介するとなると
おそらく本何冊分にもなってしまうので
どんな人間だったのかうまくまとめて分かりやすく書いてくださっている
只見町ブナセンター長の鈴木和次郎さんの追悼文と
素晴らしい弔辞を読み上げてくださった
父の一番弟子でもあり自分も幼少からお世話になっているユリの研究者 林 一彦さん
の弔辞内容を紹介いたします
ちなみにこの弔辞文章は会場におられた皆さんが大変感動されて手元に欲しいとおっしゃられたことに加えて
会場に足を運ぶことができなかった方にも是非見ていただきたいのでということで
後でメール配布されたものです
只見町ブナセンター
http://www.tadami-buna.jp/buna-sutaff.html#1(現在はリンク切れのようです)
弔辞
河野昭一先生、謹んでご逝去を悼み、生前の温かいご指導に対し、あらためてお礼申し上げます。
先生にはじめてご指導をしていただいたのは、もう四十七年も前になります。その頃私は、高校を卒業後いささかの就職を経験し再び大学へ勉強しようと富山大学に入学いたしました。
おりしも、東京大学の入試が中止になった年で、富山大学も大学紛争の最中で大学の講義もありませんでした。何時講義が開始れるかわからない状態の中で私たち新入生は、自主ゼミと称し富山大学の先生たちを迎えて教えをこいました。
その時先生は、アメリカに出張中ということでお会いできませんでした。たしか四月末頃であったでしょうか。帰国された先生を研究室に訪ねました。
研究室には、スチールの机がひとつ窓際にあり、もうひとつ台のような机が壁際にあって研究室は、がらんとしておりましたことを思いだします。
そのときから先生の研究室に出入りし出し、大学の講義がないことを幸いとして富山大学の薬草園と研究室を往復して植物の乾物生産生態学を行うことで種の生態特性と一方で生活史の研究のお手伝いを開始しました。
私も未熟で血気盛んであり先生の「学会を乗っ取るぞ」という言葉を信じていたことを懐かしく思い出ます。
しかしながら先生のお言葉どおりにはなったではありませんか。
現在の種生物学会はもとより植物分類学会、生態学会の指導者の皆様は、出身大学を問わず先生のご指導を受けた方々で占められております。
先生の研究室は、夜の十時までは研究、それ以後はカラオケ飲酒の会で富山大学のキャンパスから「河野組」と称して、町の歓楽街に抜け出し深夜二時頃までの連日の行動でしたね。しかし先生は、翌朝には九時までに大学に出て来られておりましたね。
また、お酒が飲めなかった私に、酒が飲めないやつはだめだとおっしゃって鍛えてくださいましたね。おかげで何とかおつきあい程度は飲めるようになりましたし、研究室の卒業生も皆様同様です。
また、時には厳しいご指導をしていただいたと申し上げたいのですが、そうではなく「伸びるやつは伸びる」とじっと見守っていてくださったと思います。
先生は、日本人として米国スミソニアン博物館のフェローになっておられます。
このことは、日本人としては唯一ではないでしょうか。これは、その他数々ある業績の中でもっとも誇るべき業績です。
また、京都大学に移られてからは、多くの卒業生を輩出され、一流の研究者を養成すると共に、雨漏りのする植物さく葉標本室を新しく作り、さらに京都大学博物館を建設されましたね。
学術研究は、言うに及ばず自然保護にも全力を注がれ、多くの自然保護団体の役職、とくに立山連峰の自然を守る会(現在の立山自然保護ネットワーク)の指導者として、また京都大学退官後は、社会教育にも重点をおかれ多くの市民の方々に自然保護のあり方を指導されました。
この度の突然の訃報は、いまだに信じられない思いです。今後は先生が私に教えてくださった「大切な心」を忘れることなく、多くの方々に伝えてまいりたいと思います。
河野昭一先生のこれまでのお導きに心より感謝し、安らかに永遠の眠りにつかれますことをお祈りいたします。
只見町からはブナセンター長の鈴木和次郎さんはじめ
町長さんまでが直々においでくださって
今の只見町があるのは昭一先生のおかげなのですとまでおっしゃってくださったり
ほかでも同じようなことをおっしゃる方々がたくさんおられるのを見て
本当にすごいなあと思ってしまいます
父が元気なときは 調査や採集など海外含め日本じゅう色々なところを一緒に周ることもできましたし
それを元に一緒に本を作ることもできました
そして様々な分野のすごい研究者の方々にもたくさんお会いすることができ
何よりも絵の師匠との出会いを作ってもらえました
父がどれだけすごい人間なのかそれほど意識していたこともなかったこともあり(凄すぎて触れたくなかったとも言う)
ほかではほとんど話したことはありませんでしたが
このたび父がいなくなってしまったことで
今さらですがちょっぴり自慢してみたくなっちゃいました....
おまけ
今年の2月 大阪リーガロイヤルホテルにて
花博賞を受賞した父の名代として
Panasonicの松下会長を中心にほかの受賞者の方々と授賞式に参列(緊張で顔が引きつってます)
それまで父は花博賞の選考委員として人選する立場で
こつこつと地道に頑張ってこられた方々(なるべく学者以外の一般の方)が認められ賞をもらうべきという思いが強く
自身は賞をいただいたりということはあまり好まなかった人でした
自分は数ある昭一語録の中でも
「人を大事にしなさい」
「人と比べたり競争する必要はない、それよりも自分に負けちゃダメだ」
「遊びも仕事も本気でやれ、メリハリが大事だ」
「最初に与えられた器は小さくても、器は自分で大きくするものだ」
という言葉が耳に残っています
自分は遊びだけ本気だなあ....いや遊びすら本気でやっていないかも....
とりあえず今は目の前の仕事に集中することにします....